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「山上の垂訓」にまつわるトンデモない思い違い

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プログレッシブ・キリスト教の水面下での浸透:欧米から日本へ(16)

プログレッシブの教えをいろいろと見てきましたが、中には意味不明でトンデモな教え、あまりに危険すぎる教えもありました。


(すべてのプログレッシブ信者さんがこうではないことを祈ります・・・・)

ともあれ見ていて気づいたのですが、多くのプログレッシブ信者さんは「山上の垂訓」をその信条の中心に据えているようです。

そして、この垂訓を文字通り厳守することが大事で、またそうすれば「周囲に救いが広がっていき、ひいては世界平和につながる」といった思想も見受けられます。

しかし、本当にそうなのでしょうか?

マタイ福音書から見てみましょう。

5:3「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
5:4悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
5:5柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
5:6義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
5:7あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
5:8心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
5:9平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。

平和をつくる者は幸いです。アーメン。

プログレッシブにおいては「それ見たことか!」と自説補強のためこの聖句を掲げる向きもあることでしょう。

「平和を作ろう」とジタバタするひとたち

ちょっと話が逸れますが、日本国内にも、この聖句や、イザヤ書の「剣を鋤に打ち変え二度と戦いのことを・・・」云々を掲げ、憲法9条、反戦平和、米軍基地反対、安保法制反対、云々と政治運動にいそしみ、「アベ政治をユルサナイ!」と息巻いてる牧師さんや、極端な例では反戦平和運動の過程で政府職員に暴力をふるって逮捕されてしまう牧師さんまでもいます(>< ;)

しかしよく考えてほしいのですが、彼らは本当に「平和」を作れているのでしょうか?

むしろ、ただでさえ議論の激しい事項についてますます議論の火に油を注ぎ、(別にいろいろな政治的立場を議論するのは自由だけど、聖句を盾に自分の立場の正当性を絶対化されても困ります・・・・)

自分は本当は安保法制賛成なんだけど・・・」という教会員さんたちに困惑を与え、ひどい場合は国内の分断を煽っている結果になってしまっているのではないでしょうか。

キリスト者といえども、(ていうかキリスト者だからこそ)現実を、きちんと見てほしいのです。

はたしてこの聖句は冷静に考えて、

「ただの人間には極めて実現の難しい国際間平和や世界全体の平和を、どうにか無理やりにでも作ろうとして教会員そっちのけで政府批判やデモ活動に勤しむ者は、幸いです」

と言っているのか、筆者はとても疑問です。(・・・っていうか絶対そうは言っていないと思います。)

そして、そのような牧師さんがもし、例えば北朝鮮との平和を作ろうとか、核のない世界をつくろうとか、本気で追い求めるなら、投獄覚悟で北朝鮮に渡り、本当に金にいさんに会いにいって「愛」を伝えるべきなのに、それもせず、自分は安全な場所からひたすら自国政権を責め立てるのみ。

本当は自分の力ではできもしないのに幻の世界平和を作ろうとしてジタバタしている」だけで何の成果も作っていないのだとしたら、「平和を作る」ということには決してなっていないと考えます。

聖句を吟味するときは、情緒や思い込みに流されず「事実ベース」で考えるべきです。

プログレッシブ的「平和」づくりの特徴 = 他者への押し付け

話しが逸れましたが、プログレッシブ教義に戻ります。

プログレッシブ・キリスト教においては、上記に挙げたような日本のキリスト教界にみられる左傾化と、被る部分もありつつそうでない部分もありますが、

同じようなパターンでもって、山上の垂訓に含まれるいくつかの聖句を大いに誤用している可能性はあると思います。

たとえば、敵を愛せよ、というのは、

自国の政府(たとえば当時でいえばローマ皇帝)を強いて、無理やり敵(当時は目だった外敵はいなかったようですが・・・)との戦いをやめさせ、その外敵に便宜を与えるよう要求せよ、という意味ではありません。

「敵を愛せよ」というその聖句はそれを聞いて信じた本人が実際に出会った相手に対して実行すべきものです。

プログレッシブ・キリスト教徒の方のほとんど、たとえばBenjamin Corey 博士、Gregg Boyd博士などは、

日常から、兵士や警官など、自国を脅かす敵やテロリストたちと相対している職務に就いているわけではありません。

だから、「敵を愛せよ」という聖句を引用して、テロとの戦いやテロリストへの実力行使に反対するとき、彼らは、

自らその聖句を実行しているのではなく、ただたんに「やい、おまえ、この聖句を実行しろ!」と、自分とは縁もゆかりもない自国の政治家、軍人、警官に、押し付けているだけなのです。

政治家は護衛に守られているからまだいいですが、これでは軍人や警官はたまったものではありません。

なぜなら、ただでさえ危険な職務についているのに、プログレッシブ・キリスト教義のとおりに実行したら、本当に死んでしまう危険が出てくるからです。

いったい、「自国の指導者、軍人、警官に対して、『自国の敵を愛し、武力をふるわず、便宜を図ってやれ』と、無理やりにでも要求しろ」と、聖書のどこに書いてあるでしょうか?

「平和を作る者は幸いである」「敵を愛せよ」という聖句を読んで信じたなら、自分の身の回りで、自分でできる範囲で、実際に平和を作るということを自ら実行すべきですし、ましてや聖書を盾に上記のような要求をするのは、冷静に考えればきわめて不条理なことだと気づくべきなのです。

プログレッシブ神学の真髄・果てしない「恨み言」

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プログレッシブ・キリスト教の水面下での浸透:欧米から日本へ(17)

プログレッシブ神学の真髄・果てしない「恨み言」

突然ですが、あるプログレッシブキリスト教徒さんがこのようなfacebook投稿をシェアしておられたので、ご紹介します。

イメージ 1


うーん、長いですが、

ようするに、

「禁酒禁煙、婚前交渉ダメ、同性愛ダメを掲げる保守的な教会は、間違っている!」

「男性は男性らしく、女性は女性らしく、そんな教えもナンセンスだ!」

「教会はそのような制約を撤去し、「全ての人たちが歓迎され居心地がいい場所」にならなければならない」!

もっとありていに言えば!

「こんな教会イヤだもんイヤだもん!変ってくれなきゃイヤ!」

という主張です。

一言でいうなら、「恨み言」です。

「・・・・・・・はあ?」

「じゃあ、四の五の言ってないでそこを飛び出して、自分で新しい教会作れば?」

・・・・などと言ってしまったら、議論が終わってしまうので(苦笑)少しこの投稿をイジらせていただきたいと思います。

まず、このような主張はいくつか重大なことを見落としています。

私的領域においては自由な信条が認められている

私的領域におけるグループは、極端な話、公序良俗に反しないものならばどのような方針を掲げようと自由なのです。

たとえばの話、宗教ではなくスポーツ施設ですが、あるゴルフ場が「女性は正会員になれない」などという規則を掲げることも、別段違法行為ではないのです。(オリンピック招致施設にふさわしいのか?という議論が起こったのは事実ですが)。

もしも、そういった施設規則がダメというなら、相撲における土俵の女人禁制は撤廃されなければならないということになりますし、修験道の山で「女性は入山禁止」といったものも、改められなければなりません。

しかし、一部のラディフェミを除いてはそんなことを本気でやろうとする人はいませんし、たとえそうしたとしても、当該ラディフェミ活動家が「この領域を征服してやったぜ!」といたく達成感に浸ることが出来るという以外には、特段世のため人のためになりません。

ぜひとも両国国技館の土俵に上がらせてもらえなければ、どうしてもいられない、差し迫った事由のある女性など、存在しないからです。(どうしても相撲という競技で自分を試したい女性がいるなら、単に別の競技団体を立ち上げればいいだけの話になります。)

無論、修験道の山に入らせてもらえなければ、どうしてもいられない、やむを得ない事由がある女性がいるかどうか、という議論についても同様でしょう。

それと同じで、ある教会が、「この教会メンバーになるには、禁酒禁煙がルール、婚前交渉はダメ、同性愛もダメです。男性は男性らしく、女性は女性らしくするということがメンバーには期待されます。」と定めたところで何の問題もないはずです。

だって、私的領域なのですから。イヤならただたんにそこにいかなければいいだけの話です。

またまた露呈するどうしようもない自己矛盾:「同性愛は罪」は罪?

とはいっても、保守的キリスト教徒がその信念をもって街頭に繰り出し、同性愛者と思しき人に嫌がらせをしたりするのは論外ですが、「同性愛は罪です」という宗教が存在すること自体は当然に許されなければなりません。

「いや、そんな宗教は許されない!」とプログレッシブキリスト教の信者さんが言うとしたら、まさにそこでその自己矛盾が露呈しています。

というのは、プログレッシブキリスト教徒の多くがこよなく愛するイスラム教においては、同性愛は忌むべきものであるという教えがしばしばなされるからです。

イスラムを国教としているイランやサウジでは、同性愛者が実際に処罰、処刑されることさえあります。

そうして、西洋に移住してきたイスラム教徒がそれをそのまま引き継いでモスクで説教することはままあることであり、報告されているのです。

でも、そのイスラム教を西洋世界から排除しようとする動きに、プログレッシブキリスト教徒は猛反発します。

それなのに、キリスト教がアンチゲイな主張をすると、それに対して怒るのです。

これって、おかしくないですか?

完全に矛盾していますよね?

一体彼らは何がやりたいんでしょう?

性的少数者の権利を守りたいなら、アンチゲイな説教をしているキリスト教保守派に対するのと同じくらい、アンチゲイな説教をするイスラム教徒に対しても怒りを燃やさないとおかしいはずです。

そうしないならそれはダブスタに過ぎません。

しかし、そういうことをプログレッシブ信者さんは平気で見過すことが多いようです。

だったら、自分で場所造れば。でもリスク高いよ。

プログレッシブキリスト教の根底にあるのは「恨み」であり、難しい言葉で言えば「ルサンチマン」なのだと見受けられます。

だから、まず自分が行動するより先に、既存の組織への恨みをぶつけ、かかる組織が自分の思い通りの方針を採用してくれるのを期待する、というのが基本スタンスになるようです。

(ですが冒頭で述べたように、不満があるなら、自分が納得いく教会を自分で作ればいいと思うのですが・・・・。)

ちなみに、「禁酒禁煙」については、聖書は明確に禁酒を定めていませんし、禁煙についてはそもそも直接的記載がないので、議論が分かれるところでしょう。だから各教会がそれぞれの判断で定めればよいことです。

しかしこれらの問題はさておくとしても、筆者は自らの経験に基づいていうのですが、「婚前交渉一切問題なし」というような集団を作ったら、そのメンバーはかなり高い代償を支払わされる可能性があるといえるでしょう。

筆者はキリスト教徒になる前に散々経験したので自信を持っていえるのですが、そのような集まりにおいては、男女がくっついたり離れたりが自然と発生します。

たとえ肉体関係のない交際にしても、「元彼(彼女)と付き合っているあのコ(アイツ)」への嫉妬、憤怒、その他もろもろの悪感情は自然と人間のうちに生じるものですが、これが肉体関係を伴っていたら、そのボルテージたるや半端ではありません。その感情のもつれに対処する必要が出てくる。

これが、まず一つのマイナス面です。

次に、結婚という形でコミットしない肉体関係は、「私はこう思ってたけど相手はそうじゃなかった」という行き違いを生じる余地がいくらでもあるほか、その物理的結果に対する責任を簡単に逃れることが可能になります。

あからさまに言えば、

関係は持ったが「別に俺は付き合っていたつもりじゃない」といった言い訳がいくらでもできる。

女性の側の妊娠という予期せぬ結果を引き起こした男も、「単純に姿を消す」という形で責任を逃れられる。

プログレッシブ教徒さんたちがそういったことを想定しないとしたら、なんとまあおめでたい話なのだろうと筆者は思います。

教会は、一般の人たちに対しても来会者や求道者(キリスト教に興味はあり、学びたいと思っているがまだ入信していない人たちのこと)という形で開かれていますから、

女性を引っ掛けることだけが目的の男も当然ながら出入りすることができます。(筆者は自分の通っている教会の牧師がその手の男を捕まえて出入り禁止を言い渡したことがあるのを知っています)

「婚前交渉はダメ!」という方針が隠然と、あるいは明確に伝わっていれば、「ある程度」はそういった人物に対する抑止力になりうるでしょう。

しかし「オッケー!」という方針をわざわざあからさまにして一体どうしようというのでしょうか。

「そのようなことをした人でも悔い改めれば再び集うことができます」というなら話はわかりますよ。

しかし、それは「罪ではない、悪いことではない」ということを全面に打ち出そうというのです?

では、その結果生じた事態に対しては、いったい誰がどう責任を取るというのでしょうか?

それこそ「自己責任」以外にはなりえませんよね?つまり、捨てられた女性はどんな事態が起ころうと自分で身の振り方を決めなければなりませんよね?

その教会の牧師だって、普段から「いいよ、いいよ、君たちすきにやりな」と言っているのだとしたら、その手前いざというとき無責任な男に対して怒ることもできませんよね?

いったい、プログレッシブ教義では女性の擁護を重要な柱としているのではなかったのでしょうか?

ちなみに同性愛を擁護するためにプログレッシブ教義でよく言われるのが「互いにコミットしている愛情関係を禁じる聖書箇所は一切ない」とかいったものです。

しかし、かかるコミットメントはそれを証明するものがなく、あくまでも主観的なものに留まれば、いくらでも覆すことができてしまいます。だから結婚制度という形で当事者を縛って、そのようなことができないようにするのは合理的なのです。

そして、保守的キリスト教において広く採用されている「婚前交渉禁止」の教えは、聖書に基づいているということは勿論のことですが、(完全に機能しているかは別としても)かかる事態を防ぐための一策として欠かせないと筆者は考えます。

だから、プログレッシブ教義においては、「女性を従来の役割に閉じ込めるのはイケナイ」「女性の権利ガあ~」とか「コミットだコミットだ」「愛だ愛だ」と言う割には、それがあくまで理念の提唱のみに留まっており、その実践面が必ずしも行き届いてはいないというのが筆者の印象です。

「他人が作った基盤にタダ乗りしよう!」

かつて、マルチン・ルターはカトリック教会にケンカを売って出ていきましたし、その他にも再洗礼派といって、「(当時支配的だった幼児洗礼のみをもって洗礼とするのをよしとせず)自分の頭で考えてイエスを救い主として受け入れたとき洗礼を受けるべき」と考えた人たちも当時のキリスト教宗教権威から迫害を受けました。

過去の歴史を見ると、こういった既存の宗教権威に異を唱えた人たち、というのは、いざとなれば安全に守られた基盤から飛び出していく気概のある人たちだったというのが筆者の印象です。

しかし、どうもプログレッシブ教徒さんたちはそうではないようです。

文句はいくらでも言います。

「イヤだ!イヤだ!イヤだ!婚前交渉や同性愛も認めてくんないとヤ!」

ならば、自分でイチから作ればいいではないですか。

しかし、そもそも教会を作るって大変なことなのですよ。

宗教法人として認められる要件を備えるためには都道府県あるいは文科省に規則の届出をし、内規を作って、きちんと役員会や総会を開催したりしなければなりません。

また、団体の活動に寄付をもらったりすることもあるため、要職にある人たちは、それなりに品位が求められてきてしまいます。

あのヒトとあのヒトは実は不倫でデキていて・・・なんてことは、現時点でも山ほど転がっている話ではありますが、

しかし、「ダメよ」と普段から口をすっぱくして言っているからこそ、ひとたび問題が出てきたときに処分したり非難することができるのです。

そこで「好きな人とだったら何でもしていいよ」と教えていたら何か起こっても何もできなくなるのでは?

下手したら乱交サークルみたいに見られてしまったりストーカー事件、痴情のもつれ、妊娠中絶、そういったものが表面化して(今でも表面化している事例は多々ありますが)、社会から眉をひそめられるような存在になったら、という心配はないのでしょうか?

(ちなみにアメリカではゲイのゲイによるゲイのための教会とでもいうべき「メトロポリタン・コミュニティー・チャーチ」というのがあり、そこの代表牧師は「私たちゲイは複数のパートナーを持つことがある」と言っています。筆者にしてみれば「おそろしや・・」の一言ですが。)

だから少なくとも、品位を乱すようなことは控えてね、といったルールくらいは必要なのでは?

「イヤだ!イヤだ!イヤだ!どうして男は男らしく女は女らしくなんて不愉快なことを言うの?サイテー!そんなの聞きたくない!」

この日本では、教会員の年齢層を考えると、主たる会員は明らかにオジサマオバサマなのです。

大多数の会員が、同性愛者もトランスジェンダーもドラッグクイーンも何も知らずにここまで来た人たちだとしたら、ここでその大多数の人たちにマイノリティの価値観を無理やり押し付けるのは、むしろ酷なのでは?

だって、教会は任意団体なのですから、その教会員の大多数が支持する価値観を教えたって何の問題もないはずです。しかも、「男は男らしく、女は女らしく」は聖書にはっきり書いてあることなのです。(Iコリント人への手紙11章など。)

「イヤだ!イヤだ!こんなのヤ!誰にとっても居心地のいい場所じゃないとヤ!」

そんな場所なんてこの世に存在しようがないのです。論理的に不可能です。

だって、隣にドラッグクイーンが座っていたら「居心地が悪い」と感じるヒトはどうするのですか?

そういうヒトはレイシストでミソジニストだ!オマエが慣れろ、イヤなら出てけ」ということになるとしたら、それはそれで問題です。

だから、ありとあらゆる人たちが満足できる教会なんて求めるべきではないのです。

オジサマオバサマが安らぐ教会があり、若者が集う教会がある。

逆に言えば、「教会に集うオジサマオバサマは価値観を変えろ!俺らに合わせろ!」という権利は誰にもないのです。

アメリカではチャック・スミスという牧師さんが、ヒッピーたちがイエスを信じたときに、その服装が原因で既存の教会が受け入れてくれなかったので、「カルバリー・チャペル」を作ったと言います(今はかなり大きな団体になっています。)

志がある人はいままでずっとそういうふうにしてきたのだし、これからもそうあるべきでしょう。

だからプログレッシブ教徒さんが、「聖書は同性愛も婚前交渉も禁止していないし男女の役割も全く気にしていない」という新たな解釈を真理として「発見」した、というのならば、

(まあ聖書のどこをどう逆さに読んでも無理でしょうけど)

先達の例にならい、今いる場所を飛び出して、そのいわゆる「真理」に基づいたなんやらの団体を立ち上げればいいでしょう。

もしそれが本当に「真理」なら、ついてくる人はいるはずです・・・・もし本当にそうなら、ですけど、ね

でも、「違和感がある、オマイラ、変われ、俺に合わせろ」といった主張を繰り返すのみにとどまっていたのでは、周囲の理解を得るのはなかなか難しいのではないでしょうか。

同性愛禁止?OK?コドモの理屈

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プログレッシブ・キリスト教の水面下での浸透:欧米から日本へ(18)

同性愛禁止?OK?コドモの理屈

保守派キリスト教会における同性愛禁止の教えについて、プログレッシブ信徒さんの間ではこんな苦情が常々上がっています。

「聖書を使ってLGBTの人たちを裁くな!」

「同性愛について語っていると思われる聖書箇所は確かにあるが、その意味は明らかなものではない!」

なるほど。ちなみに、聖書を使ってLGBTの人たちを断罪するのは正しいでしょうか、間違っているでしょうか。

イエスの基準ではそもそも、異性愛者が配偶者以外の人を情欲を持って眺めるのは罪です。(マタ5:27など)

だから、仮に、異性愛者である筆者(男性)が、通りがかりの女性を見て「自分のものにしたいな」と思ったら、そう「思った」だけで、もう「罪」です。

異性愛者であろうと何であろうと、結婚を通じて自分のために「聖別」(ちょっと難しい言葉ですが、「特別な目的のために取り分ける」といったような意味です。)された人以外の人に対して欲望を持つこと自体が「罪」ということです。

だから、聖書を用いてLGBTの人たちを断罪するとき、異性愛者のキリスト者は、自分たちの心のありようもまた断罪される可能性があることを思い起こす必要があります。

しかし、です。

LGBTの人たちの心のありよう、あるいは生活のしかたは、隣の奥さんあるいは娘さんを見てよからぬことを思う異性愛者の罪ぶかさと全く同等であり、特段「異性愛者に比べて」断罪すべきものではなかったとしても、

彼らが自らのライフスタイルを指して「同性愛は罪ではない」と主張するとしたら、それは誤りに陥っている。これは確かです。

何をどういいつくろったって、イエスがはっきりと「男はその父母を離れ、妻と結び合い、二人は一体となる。」と語っていることは変えられません。

ことあるごとに「イエスは差別しなかった」「イエスは父親が二人いた(←ハア?じゃあ父なる神とヨセフは「同性カップル」だったっての(爆)?)」と議論まびすしいプログレッシブ信徒さんたちですが、

そのイエスその人が、結婚をこのように明確に定義しただけでなく、

「不貞以外の理由で離婚するのは妻に姦淫の罪を犯させるのと同じ」と断定し、

実質的に「一生涯一伴侶(片方が死ぬまで)」の原則を打ち出したのです。

結婚は、男が妻と結び合うこと。

罪でない性関係はこの結婚を通してしか得られない。

見て妄想するだけでダメ。離婚も原則ダメ。

たぶん異性愛者であろうとなんだろうと、この基準を完全に達成できる人などごく少数でしょう。

いったい、この狭い基準のどこに、同性同士で「コミットした関係」なら「罪ではない」という推論が入る余地があるのでしょうか?

「いや、異性愛者だって離婚したりしてるじゃないか」という反論もありますが、それこそ本末転倒です。

教会では「イエスの基準を守るのは大変なんだけど、みんなできるだけ努力しようね」と教えているのです。

それで失敗してしまったら、それはそれでしょうがありませんが

基準に合っていないものを基準に合っていないと言うことじたいは当然の話です。

だから、離婚しようとする人に対して「離婚は神の御心に反することです」と教えるのは牧師だったら当然のことなのです。だってイエスご自身が「離婚は原則イカンよ」と言っているのですから。

(そのうえで、亭主がどうしても働かず生活が立ち行かないとか、それぞれのケースにどう助言するかは各教職が判断すればよいことです。)

例えば、ゴルフでショットして狙いを外した人に対して「君、残念だが的を外したね」と事実を指摘するのは悪いのでしょうか。

それを誰が言うかによっては、聞く方にとって「お前みたいなヘタクソに言われたくない!」という感情が湧くことはままあるでしょう。

しかしどっちにせよ、誰かが客観的事実を指摘してあげなければ話は前に進みません。

ところが、プログレッシブ神学においては、そもそもこの「的」をないことにしようと言っているのです。

「同性愛は神の御心に反することです」と教えてはイケナイ、というのです。

「婚前交渉は罪です」と教えてはイケナイ、というのです。

?????

言ってみれば、どんなハズレ玉であっても無理やり口を揃えて「ナイスショット!」といわなければならない、というルールを作るのと同じです。

教会っていつから接待の場所になったのでしょうか?

教会員はいつから契約の決裁権を握る取引先部長さんになったのでしょうか?

もちろん、サラリーマンなら糊口をしのぐためにそのような状況を忍従しなければならないという状況は筆者もよくわかります。

しかし教会は会社ではないし、教会員は取引先ではないのです。

結婚についてイエスが語ったことが正しいと信じるなら、それをそのまま教えればいいのです。遠慮する必要はありません。

いったい従来直径108mmのカップに入れることを狙う競技だったのを、直径108メートルのエリアに入れればよしとするようなものにしたら、果たしてそれをゴルフと言うでしょうか?

こんなものは、新しいルールの新しいゲームであって、もとあったキリスト教の教えとはほとんど何の関係もないものなのです。

ほとんど聖書以前の問題・・・・・

しかし、プログレッシブ信徒さんたちの議論に接していて、筆者はあることに気づきました。

彼らにとって、聖書は本当にどうでもいいものなのです。自分の議論の有利になる部分は文脈を無視して抜きだし、不利になる部分は片っ端から記憶から抹消するだけ。

彼らは、同性愛、婚前交渉、離婚、その他ありとあらゆるライフスタイルをニコニコと是認してくれるやさしいオジさんが欲しいので、そのためにイエスの名前を借りているに過ぎません。

だから、いくら聖書を持ち出して議論しても堂々巡りにしかならないのです。

ですから、筆者はそもそも聖書以前の、もっと分かりやすい話をもちだしましょう。

仮にある既婚女性Aさんが友人女性に対して「私は週3回ほど夫と性交します」と打ち明けたら、当該友人は「あらまああなたって幸せネェ~」としか思わないでしょう。

せいぜい、「妊娠かもと思ったらすぐ妊婦検診に行きなさい」くらいのアドバイスをする程度でしょう。

しかし、筆者がもしある男性Bさんから「私は男性のパートナーと週3回ほど肛門性交します。また、決まったパートナー以外の男性と性交することもあります。」と打ち明けられたら、

「悪いことは言わん。健康に悪い。やめれ」

としかいえません。

プログレッシブ教徒さんは、AさんBさん両者のケースを全く同じ性質のものでありどちらも大いに祝福されるべきものとして扱いたがっているようですが、医学的、物理的に両者は全く違うものです。

いや、どう逆立ちしたって両者は同じになんかなりようがありません。

だって、ぶっちゃけた話膣は生殖器官ですが、直腸は吸収器官なのですよ?

前者は3キロにもなる新生児を送り出すことさえできる強靭な臓器ですが、後者はちょっと何かあっただけですぐ出血する脆弱な臓器です。

そして後者はその内部に導入されたものを吸収する性質があります。(乳幼児が高熱を出すとき使う座薬を思い浮かべていただければわかると思います。)

さて、いっぽう、男性の精漿には免疫抑制物質が含まれていることが知られています。女性の胎内で受精するためには精子が免疫機構に排除されないようにしなければならないからです。

そうして、男性同士で性的活動を行うときには、傷ついた直腸の粘膜から、すみやかにそういった物質が吸収されていきます。

するとどうなりますか?

こんなことを繰り返していたら、受け手は免疫機構が損傷するに決まっています。

だから、HIV陽性に罹患する男性同性愛者の患者数は、人口全体の中の同性愛者の割合に比べると、恐ろしく多いし、肛門ガンとか、その他聞いたこともないような病気や各種のSTD(性的感染症)にかかる可能性が非常に高いのです。

こんな基本的統計事実は、アンチゲイのゴリゴリクリスチャン保守派サイト(海外にはたくさんあります)だけでなく、一般のHIV意識啓発サイトとか、米国でいったらCDC(疾病管理予防センター)のウェブサイトなんかにもフツーに乗っている話なのです。

ですから、筆者は、「同性愛禁止なんて聖書にない!」「パートナー以外とセックスするななんて教えを勝手に作るな!」と息巻いているプログレッシブ信者さんたちの主張を見るにつけ、つくづく思います。

この人たち・・もしかすると今まで恐ろしくオクテな人生を送ってきたんじゃなかろか?

もしかして頭の中は妄想だけで、実体験が一切ないのじゃなかろうか?

性っていうものを漫画に描かれたものでしか知らないとか?

いったい自分が何言ってるかわかってるのだろうか?

そんなにやりたいなら勝手にやればいいけど、

その際のリスク本当にわかってんの?

しかも、パートナー以外の相手とセックスするということは、当該「パートナー以外の相手」が今まで性行為をしてきた相手全員と性行為をするのと、実質的には同じ。

そうやって感染症は拡大していくんだよ?

だとすれば「それダメ。禁止」と言うことになって当然ではないですか。

そのような習慣を持っている人がいたら「悪いことはいわん、やめとき」と助言するのは当たり前ではないですか。

「理念の上で無責任に遊んでいる」ひとたち

プログレッシブ教義を研究するにつれ、彼らは「現実ベース」でものごとを考えることができず、「理念の上で無責任に遊んでいる」だけにすぎないことがわかってきました。

旧約聖書の解釈においては「科学的」「論理的」思考を優先すると標榜しているはずの彼らなのに、目の前の問題に対してはどうしてこんなにも不条理なポジションをとりうるのか、本当に不思議でなりません。

「パートナー以外との性行為OK、同性愛OK」

そのような教会が欲しいなら、既存の教会に文句を言うのではなく自分で勝手に作ればいいでしょう。

まず自分の家で集まりを持ち、人数が増えたらどこかに場所を借り、いずれ行政書士に頼むなりして宗教法人格も取得し、何年もかけて献金が貯まった暁には会堂を買えばいいのです。

これらに伴う事務作業を自らの手で責任を持って実行すると同時に、プログレッシブな教えをすることにより教会員に生ずるであろう事態に関するあらゆる責任もまた、指導者として自らが負うべきです。

既存の教会の指導者たちは、誤りを全く犯していなかったわけではないにせよ、今まで立派にそうして来たのだから、彼らと同じ土俵に立つためにはプログレッシブキリスト教を奉じる人たちもそうしなければ筋が通りません。

「今まであんたらが作り上げてきた基盤はこっちによこせ!ただし教義はもっとプログレッシブにしろ」ではあんまりにも虫が良すぎるというものです。

はっきりいって、それは「コドモの理屈」です。

他人に教える者は、格別の厳しい裁きを受けると聖書にはあります。

そういうことを知りながらあえてそうするなら、自らの固い信念のもとそうすればいいのです。

しかし、その現実から遊離したおめでたい理想主義に付いていこうとする信徒さんたちがいたとしたら、筆者には彼らに対してこれしか言えません。

「悪いことは言わん。やめときなさい。」

Brian Zahnd 牧師の「こ~うなったらいいのにな~」

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プログレッシブ・キリスト教の水面下での浸透:欧米から日本へ(19)

Brian Zahnd 牧師の「こ~うなったらいいのにな~」

あるプログレッシブ・キリスト教徒の方がフェイスブック投稿で引用しておられた面白い文章をご紹介します。

元ネタは「Brian Zahnd 」さんという牧師さんのブログですが、極端な非暴力主義を唱えるプログレッシブ教徒に対して、「もし誰かがあなたの家に侵入してきて家族を殺そうとしたら?」という質問が投げかけられたらどう答えるか、というものです。

この手の問答は、きょうびアメリカではよくなされるみたいです。まあそりゃそうです。服部君射殺事件で日本でも有名になりましたが、アメリカでは地方によっては治安が悪く侵入強盗事件が多いのと、銃の保持と不法侵入者への攻撃が認められていますから。キリスト教徒にとっても他の人たちにとっても切実な問題になりうるでしょう。

で、このプログレッシブ牧師さんの対応はといえば・・・?

------------------


(中略)

このシナリオはいつも同じ形で提示されます。こんなふうです。「侵入者があなたの家に侵入。彼の意図はあなたの妻を強姦し子供たちを殺すことです。あなたはどうする?」これは美しいインタビュー開始方法ですね。でしょ?

この議論は、たった2つのオプションしか想定していません。暴力をもって家族を守る(なるべくなら銃を使って)または家族が強姦され殺害される間無為に立ち尽くしている。(深いため息)この議論の問題は、その2元的な前提です。何もしないか、同じような暴力で対応するか。ここには著しい想像力の欠如が現れています。この、今ではおなじみの質問に対して私ならどう答えるか?それはこんな感じです。

このことは起きていません。あなたは架空のシナリオを想像しなさいと言いました。しかし、私はそれに従って、悪意を持ち銃で武装した侵入者が私の家に押し入ったと想像します。そこで私はこうします。私はイエスの名によって侵入者を武装解除する。侵入者に福音を説教する。彼は改心する。次の日曜、私は彼に洗礼を授ける。半年後、彼は私の教会で案内係をしている。

どうですか?質問者は言います。「それは現実的じゃないね。」私は言います。いや、現実的ですよ。ある人は馬と馬車に信頼し、ある人はスミスアンドウェッソン[訳注:アメリカの有名な銃器メーカー]に信頼します。しかし私は我らの神主イエスの名に信頼します。もしあなたが私に何かを想像しろと言うなら、私がこれを信仰と創造性をもって想像することを批判しないでください。これが、私がこの想像的シナリオを提示されたらどう答えるか、です。私は対案をもって答え、もっと美しく、想像をもって考えるのです。

(後略)

------------------(強調筆者)

はははは!いやこれは驚きました。

てっきり、「私は家族のため身を挺して犠牲となって死に、死に際に強盗に対して福音を説きながら『神よ、彼をお許しください』と祈り、そのさまを見て強盗が悔い改め、家族は助かる・・・・」とかそういうパターンを想像しているのかと思ってたら、

「イエスの名によって侵入者を武装解除する。侵入者に福音を説教する。彼は改心する。次の日曜、私は彼に洗礼を授ける。半年後、彼は私の教会で案内係をしている。」

なあんだ!

普段はイエスのように生きるのだ、自己犠牲だ、なんだかんだと言いながら

要するに、彼には家族のために自分が死ぬ覚悟すらないのです!

「家族のために戦うのもイヤだ。」

だからといって自分が死ぬのもイヤだ。

家族が被害に遭うのももちろんイヤだ。

ボク、イタイのイヤだ。体力使うのもイヤだ。

イヤだ。イヤだ。イヤだ。全部イヤだ。

う~ん。それよりも、こうなったらいいなぁ。ああなったらいいなぁ。

・・・・もじもじ。うきうき。(妄想中)

そうして、このようにふわふわひらひらの幻想世界で好きなように想像を遊ばせたあげく出てきた絵空事をかざして「どう?これがプログレッシブ・キリスト教の解決法よん、スゴイでしょ」と嬉しげなのです。

何よりも顕著なのが、現実と妄想の区別を消し去る妄想力。

この牧師さんは「人類の過去の経験から学ぶ」ということを一切しないらしい。

なぜ「自宅に武装強盗が押し入った」という仮定の質問が「デュアリスティック」(2元的)かって?

そりゃ当然ですよ、だって武装強盗事件なんて有史以来数えきれないくらい発生してきている反面、その顛末というのにはさほどバリエーションがないからです。

それなのに、この牧師さんときたら、いまだかつて発生したことのないような奇跡的な事象が、自分の身に限っては起こる、ということに奇妙な確信を持ってはばからないらしい。

いや、ねえ、だって、考えてみてくださいよ。

この平和な日本でさえ、きょうび、銀行員さんや、コンビニの店員さん、牛丼屋さんの従業員さんだって、「強盗が来たらこう対処する」っていうのを、リアリスティックな想定に基づいてちゃんと考えているはずでしょう?

まさかまさか、対処マニュアルに「強盗にねんごろに話しかける」→「強盗は武器を下ろして投降する」→「めでたしめでたし」なんて書いてある店舗なんて、この世に存在しないでしょう?

ましてや、自宅への武装侵入強盗事件は、それと同等かもっとシリアスな話ではないですか。

およそ、家の主人たる者なら、誰もが一度は真剣に考えるべき事項でしょう。

ある人は警報装置を購入するかも知れないし、ある人は武器を購入するかも知れません。

もしも誰かがそこで「そのどれも選ばず、私は神にのみ信頼する」というのなら、もちろん、それはそれでキリスト者としてひとつの立派な回答ですが、それはすなわち「自分の身を神の手に預ける」ということです。

それはぶっちゃけ、「どう料理されようとその帰結を受け入れる」ということです。

つまり、「もしかすると殺害されるかもしれないけれど、それを甘受する」。もしもそう言うならそれはそれで、筋はキチンと通ってると思います。

でも、なんとなんと、この牧師さん、こういったタフな質問から逃げるだけでなく「ボクに限ってはきっとこうなるはず!うふふ!るんる~ん!」と根拠のない妄想を弾ませているのです?

・・・で、過去に、侵入者を撃退するのでも、侵入者に殺害されるのでもなく、侵入者をイエスの名で武装解除した実例がたった一つでもあるのでしょうか?

でもねえ・・・そんなニュースがあれば大々的に伝わるはずですし、何よりもプログレッシブ信者さんたちが好んで実例として使うようになるはずでしょう。引き合いに出す実例がない時点で、これは致命的です。まあ、仮に実例が1つ2つあったとしても「僕の場合だって絶対そうなる!」って言える根拠はどこにもないのですが。

(筆者は、その妄想とは対照的な話を聞いたことがあります。「ある牧師さんが、自宅に侵入してきた強盗と格闘のすえ相手に致命傷を負わせてしまったので、その重傷を負った強盗を介抱しながら、罪の告白をさせ、イエスを信仰するよう導き、最後の瞬間まで看取った」というものです。知り合いから聞いただけの話で裏は取っていませんが、アメリカではムッチャありうる、リアルな話だと思います。)

リアリスティックな状況を想定した質問をされた際に、突然、嬉々として厨二的な幻想世界の話を披瀝する。

はっきり言って、この牧師さんに質問したひとは思わぬ話の展開と、あまりの世界観の落差にドンびきしたのではないでしょうか。


Brian Zahnd牧師。幼稚園児が歌う歌に、子供らしい想像の世界を歌った「こ~うなったらいいのにな~」というのがありますが、イイトシした大人がこんなことを堂々と披瀝しているのがなんともホホエマシイ。

それにしても、プログレッシブ・キリスト教の教師たちが生きる世界というのは、あんまりにもまぶしすぎます。(別な意味で。←っていうかどんな意味だよ(爆))もう筆者には正視できません・・・

「天国は、なーい」←ジョン・レノンか!(爆)

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またまた、プログレッシブ・キリスト教徒さんの面白い投稿がありましたのでご紹介します。

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おおお、なんとも力のこもった投稿です。

プログレッシブ教においては、「地獄などない」「地獄など比喩です」

が前提であることは、これまでいろいろプログレッシブ信徒さんたちの投稿を拝見してよくわかりましたが、

「想像してごらん。天国は、な~い(←by ジョン・レノン(爆))」

という境地にまさか行き着いていたとは思いませんでした。

K.F.さん、キリスト教の解体作業がとうとう完了したみたいですね。お疲れさまでした~!(笑)

・・・と冗談はさておいて、果たしてこの主張が妥当かどうか考えてみたいと思います。

天国ってなに?

プログレッシブ教徒さんにとっては聖書など何ほどの価値もなさそうなので、まったく無駄なことだとは思うのですが、

一応「天国」とは何か、誰が「天国」にいけるのか、について聖書が何を語っているか、見てみたいと思います。

・・・とはいえ、これを説明する前に、「人は死んだらどうなるか」ということについて聖書がどう語っているか、時系列でまとめる必要がありそうです。

(1) 永遠の命の約束

イエス・キリストを信じる者は、「永遠の命を与えられ」「さばきに会わず」「死からいのちに移る」(ヨハ5:24)とイエスは語っています。

(2) 復活の約束

これに加えて、全ての死者はみなよみがえる、そして善人はいのちを受け悪人はさばきを受ける、という大原則をイエスは語っています。

ヨハ5:28-29
・・・・墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。

このよみがえりとはいったいどんなものなのでしょうか。

(3)再臨

パウロ先生の解説によれば、イエスを信じる者は、「終わりのラッパとともに」「朽ちないものに変えられる」ということです。

Iコリ15:51-53
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。 ・・・

さらに詳しくいうと、このタイミングは即ちキリストが再臨するときであって、そのときにはイエスを信じて死んだ者がまずよみがえり、次にその時生きている信者が引き上げられる(つまり携挙される)

Iテサ4:16-4:17
 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

しかし、まだ「天国」は出てきませんね。彼らはそのあとどうなるのでしょうか。

(4) 千年王国

再臨のあと、いわゆる「千年王国」が始まるのです。

黙示録によるならば、彼らはその王国において特別な任務が与えられています。

黙示20:4
また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。 

イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たち」が、よみがえって、千年間の間地上を支配することがわかります。

つまり、彼らは世間一般で思われているように、天使のわっかをつけて、ふわふわした雲の中で遊んでいるというわけではなく、王の王であるキリストを補佐する者として地上にあるものを管理する任につくわけです。

なお、この記述を見ると、再臨-千年王国の直前の艱難時代に「獣」の迫害を耐えた人々だけに限定され、艱難時代に入る前に死んだ信者は含まれていないようにも見えますが、以下の箇所からその疑問は払拭できます。

マタ19:28
世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。

12弟子は、これから先の艱難時代よりはるか前に死んでいますが、その12弟子たちが、イエスの再臨後にイスラエル12部族をさばくものとして指名されていることがわかります。

さらに、以下の黙示録の箇所から、12弟子たちやユダヤ人の信者だけでなく、イエスの血によって贖われた人々は、あらゆる民族・国民にわたっており、それらの人々も王・祭司として地上を治めることとなっていることがわかります。

黙示5:9-10
あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。

イエスを信じて死んだ者たちは朽ちない体によみがえって、これらの任務につくことが確認できました。また、再臨のとき生きている者も同様に作り変えられ、この任務につくものと考えられます。

では、上記以外の死者は、どうなるのでしょうか。

黙示 20:4-6
・・・彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。[←注:獣を拝まなかった人達です。]そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。 この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。

その他の死者は再臨後も千年の間、死人のままでいつづけます。使徒ヨハネは、ここで「第二の死」というものを予告しています。復活にあずかった者は、千年の間支配するだけでなく、この「第二の死」には無関係だと言っていますが、いったいこの「第二の死」は何を意味するのでしょうか。

(5) 最後の裁き

千年王国の最後に、縛られていたサタンが開放され、ゴグ・マゴグを惑わして戦いを挑ませますが、彼らは天からの火で焼きつくされ、サタンは、先立って「獣」「にせ預言者」が投げ込まれていた火と硫黄の池に投げ込まれます。そしてそのあと「白い御座」のさばきが始まるのです。

黙示20:11-15
また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た・・・また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。・・・・・そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

いわゆる、「その他」のすべての死者は、千年王国の最後のときに復活して裁きを受けることがわかります。これが「第二の死」です。

(6) 新しいエルサレム

その後、イエスを信じる者たちは、天から降りてきた新しいエルサレムで永遠にイエスと御父を礼拝し続けます。

黙示21:2
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。 

 22:3-4
もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。

ひととおりみてきましたが・・・あれ、おかしいですね。

いわゆる、一般的なイメージの天国と、いまいち合致しません。

よく言われるのが、イエスを信じれば、その人は死んだらすぐ「天国」に行く、ということなのですが、それは違っていたのでしょうか。

でも、ご安心を。その答えも聖書にはちゃんと書いてあります。

(1) イエスを信じる者が死んでから復活するまではどこで過ごすのか。

パラダイスです。

ルカ23:43
イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

これは極めて重要な聖句です。この言葉は、イエスの隣で十字架につけられたがイエスを信じた重罪人に向けて語られたものです。

つまり、カトリックでよく言われるように「煉獄」での苦しみを経て清められてからパラダイスに行くのではなく、イエスを信じて死んだ者の魂は、その日に、パラダイスに着くことになります。

でも、パラダイスっていったいどんな場所でしょう?

IIコリ12:2-7
私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に――肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。――第三の天にまで引き上げられました。 私はこの人が・・・・パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。 このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。 たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。

パウロ先生はもってまわった言い方をしていますが、彼自身がパラダイスの内容について啓示を受けたことはあきらかです。

それがあまりにもすばらしいので、「人が私を過大に評価するといけないから」、「高ぶることのないように」肉体に「とげを与えられた」とまで言っています。(有力な説ではこれはなんらかの慢性病とみられています。)

残念ながら、パラダイスは存在していても、それをつまびらかにするのは神さまの御心ではないようです。

死んでパラダイスに行ってきました~」なんて人もたまにいますが、こういった類のものは疑ってかかったほうがよさそうです。

パラダイスに関する数少ない直接的記載は、あともう一つしかありません。

黙示2:7
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。

ともあれ、イエスを信じた者が死んでから復活するまでをすごす場所は、明らかに、地上よりもずっと良い場所であることは間違いありません。この確信は慰めを与えてくれます。

(2) イエスを信じない者が死んでから復活するまではどこで過ごすのか。

「黄泉」、ギリシャ語でハデス。旧約ではよく陰府」といわれますが、ヘブル語でシェオールです。

とはいえ、このハデス・シェオールを考える前に、一般的に言われる「地獄」との区別に着目しなければなりません。

そもそも、旧約における「陰府」は、義人であろうが悪人であろうが全ての死者が一般的に入る場所と考えられてきました。

そして新約になってはじめて、そこになんらかの区別があるらしいということが明確になります。

ルカ16:19-24
ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。 さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』 

貧乏人ラザロにとっては慰めの場所ですが、この金持ちにとっては苦しい場所のようです。

上記はイエスご自身の説明ですが、そこから推察するなら、「黄泉」は少なくとも2つのセクションにわかれており、正しい者は慰めを受け悪い者は苦しみを受けることになっていたようです。(ただし後者の場所も、厳密には地獄とは違います)。

(3) 旧約聖書の義人たちは死んだあとどこで過ごしていた(いる)のか。

でも、まだ疑問があります。「旧約聖書の登場人物はどうなった?彼らはイエスを信じていなかったじゃないか。」

いえ、イエスは、ルカの福音書にある金持ちとラザロの箇所でこう語っています。

さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。

聖書は、そこをパラダイスだ、とは言ってはいませんが、旧約で神の友であったアブラハムは、金持ちがいる苦しそうな場所とは区別された場所で、貧乏人ラザロを迎え、慰めています。

整理していくと、イエスが十字架にかかってはじめてパラダイスができたのであって、それ以前には、死者の魂が行く場所は「黄泉」だけということでしたが、その黄泉も、慰めの場所と、火で焼かれる場所と、2つのセクションに分かれており、旧約の義人たちも死後は良いほうの場所で過ごしていたと考えるべきということになります。

ある説では、キリストの十字架とともに、旧約の義人たちは黄泉(の良いセクション)からパラダイスに引っ越したのだという主張もあります。

さらには、旧約の義人たちもまた千年王国では復活するのではないか、と筆者は考えています。なぜなら、主イエスの変容の逸話(マタイ17、マルコ9、ルカ9)においてモーセとエリヤが現れてイエスと語り合っているからです。これは、おそらくはいつか実現することを表象しているのであって、それは千年王国においてと考えるのが一番妥当と思います。

しかし、まだまだ疑問はあります。

(4) イエスの再臨時の「獣」とキリストの戦いを生き延びた人たちはどうなるのか。

今まで、イエスを信じて死んだ者たち、イエスを信じて再臨の日を迎えた者たち、旧約聖書の義人たち、それ以外の死者たちがどうなるのを見てきましたが、もう一つのグループがあります。

それは、再臨の時点で、イエスを信じておらず、なおかつ「獣」とキリストの戦いを生き延びた人たちです。

聖書を字義どおり解釈するならば、これらの人たちは2種類に分けられます。

ユダヤ人と異邦人です。

まず再臨の時点に着目すれば、これらの人のうち、異邦人は「羊」と「山羊」によりわけられます。

マタ25:31-33
人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。

長くなりますのでこれ以上は引用しませんが、「兄弟」という言葉の意味合いから考えると、これは、ユダヤ人を陰ながら匿い支援した異邦人と、ユダヤ人を迫害した異邦人とのよりわけであると考えるのが最も妥当と思われます。

後者はさばきを受けます。

いっぽう、ユダヤ人は。

ゼカ12:10
わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。

彼らは再臨のイエスを見上げて不信を悔い改めます。

そして全員がイエスを信じます。

エレミヤ31:33-34
見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。・・・・・わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。・・・・

このイスラエルの家に建てられた「新しい契約」では、人々が小さい者も大きい者も主を知り、もはや誰かが誰かに教える必要はない、とされています。

パウロもローマ書11:26で、「こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。」と証し、イザヤ59章を引用しています。

59:20-21 「しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る。」―主の御告げ―これは、彼らと結ぶわたしの契約である」と主は仰せられる。

(なお、エレミヤ31章の「新しい契約」にまつわる箇所はヘブル書8章でまるまる引用されています。それゆえ、これらの「新しい契約」は私たち新約時代の異邦人信者にあてられたものと即断してしまう人もいますが、それは違っています。むしろローマ11:17にあるように、私たち異邦人はあくまで「イスラエルの家とユダの家」にあてられた契約を、「ともに受けている」だけの者だということを覚えておく必要があります。)

ともあれ、イエスを信じたユダヤ人たちは、国々の中で筆頭となり、繁栄と栄華を誇るようになります。

イザヤ61:4-7
彼らはいにしえの荒れた所を建てなおし、さきに荒れすたれた所を興し、荒れた町々を新たにし、世々すたれた所を再び建てる。外国人は立ってあなたがたの群れを飼い、異邦人はあなたがたの畑を耕す者となり、ぶどうを作る者となる。しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神の役者と呼ばれ、もろもろの国の富を食べ、彼らの宝を得て喜ぶ。あなたがたは、さきに受けた恥にかえて、二倍の賜物を受け、はずかしめにかえて、その嗣業を得て楽しむ。それゆえ、あなたがたはその地にあって、二倍の賜物を獲、とこしえの喜びを得る。

また、生き残っている異邦人たちは、主を礼拝し、主の教えを知るために集まってくるとともに、ユダヤ人に殺到して教えを請います。

ゼカ14:16
エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。

イザ2:3
多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。

ゼカ8:23 
万軍の主はこう仰せられる。「その日には、外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、ひとりのユダヤ人のすそを堅くつかみ、『私たちもあなたがたといっしょに行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたからだ。』と言う。」

また、自然環境ががらりと変り、動物は肉食をしなくなり、人間の寿命は著しく伸びます。

イザ11:6-11
 狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。

65:19-25
そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。・・・・・わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。・・・・狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく、滅ぼされることもない。」

千年王国においては、異邦人たちの多くもイエスを信じるようになると同時に、繁栄と幸福にともにあずかることになりそうです。

(聖書学者のA.フルクテンバウム博士は、「肉の体をもって千年王国に入った者は、イエスを信じたときに不死の体となるいっぽう、イエスを信じない者は100年ほどで死んでしまう」という立場をとっています。したがって、千年王国の終わりに反乱するゴグ・マゴグの軍勢は生まれて100年もたたない「若い」人々の集団であると考えられます。

ここでイエスを信じた異邦人たちが千年王国後新しいエルサレムに入るのは間違いないでしょう。

小まとめ

・・・ずいぶん長くなりましたが、「天国」とはなんぞやについて聖書をひいてサクっと解説するのはやはり無理で、最低限でも以下を踏まえる必要があるということがわかりました。

(1) イエスを信じて再臨前に死んだ者は
「パラダイス」にいく
→再臨時に蘇り、千年王国で地を支配する
→新しいエルサレムに入る

(2) イエスを信じて再臨まで生き延びた者は
→携挙され、新しい体となり千年王国で地を支配する
→新しいエルサレムに入る

(3) イエスを信じずに死んだ者は
「ハデス(黄泉)」にいく
→千年王国の間も死者でいつづける
→千年王国の終わりに「白い御座」のさばきをうける

(4) イエスを信じないまま、再臨を迎え、「獣」とキリストの戦争を生き延びたユダヤ人は
→イエスを信じる
→千年王国で繁栄を享受、不死の体となる
→新しいエルサレムに入る

(5) イエスを信じないまま、再臨を迎え、「獣」とキリストの戦争を生き延びた異邦人は
→ユダヤ人迫害者は「山羊」として裁かれる
→ユダヤ人援助者は千年王国に迎え入れられる
→繁栄を享受(その一部は、イエスを信じない可能性がある。また、千年王国の終わりには人類の子孫からサタンの唆しに乗って反抗する者が出てくる。)
→信じない者は若くして死ぬ(とはいっても100歳くらいは生きる)
→信じた者は不死の体となる
→新しいエルサレムに入る

時系列にまとめるとこのようになるはずです。

いやはや、プログレッシブ信者さんたちは、自分たちの信念と異なる聖句をどれだけ提示されてもまるで「屁」とも思わないでしょうから、まったく無駄でしょうに、我ながらご苦労な作業をしてしまいました。(笑)

悪人は悪人のまま天国に行ける?仮に行ったらどうなる?

しかし、筆者は思いますが、これらの聖句を細かく吟味する以前の問題として、冒頭に挙げたプログレッシブ信者さんの論理には重大な瑕疵があると思います。それをこれから考えていきたいと思います。

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→はい、この指摘は、おおむね合っています。聖書には、確かにそこここにそれらしいことが書いてあります。

で、聖書など屁とも思わないプログレッシブ教の立場としては、それらの聖書箇所が間違っており、それらの聖書箇所は「イエスキリストの心を完全に裏切る」というのですね。(←いやあ、何度読み返しても、この論理展開についていくのに本当に苦労します(苦笑))

でも、よく考えてみれば、天国というのは、痛みも苦しみもなく、死ぬことも無く、人々が永遠に生きられる場所、と思われていますよね?

そんな場所に、もしも「心に憎しみや悪い思いを抱えている人」「罪を悔い改めていない人」が一人でも混じったら、その瞬間からその場所は以後永久に「天国」ではなくなってしまうと思わないのでしょうか?

考えてもみましょう。

いま我々が生きる世界は完璧から程遠く、大半の人々はあくせく労働しなければならないうえに、どんなによくても80年ほどしか生きられず、どんなに元気な人でもだいたい40歳過ぎると急激に体が衰えてきます(切実(爆))。

これは逆に言うと神さまの恵みともとることができるのです。

なぜなら、たとえ心に、「悪いことをしよう」という思いを抱えている人でも、今の世界では、実行できないまま日々を忙しく過ごし、数十年数えているうち、自然と体力が衰え、悪いことを実行する能力すらもなくなってくるからです。

極端な話、どんな凶悪な者、連続殺人犯とか、たとえヒトラーといった独裁者でも、ある時期は逃げおおせたり、いっときは栄えることがあっても、放っておけばいつか死んでしまう。

だから、今の世界では、凶悪な者でさえも永遠に凶悪なことをし続けることはできません。

ところがです。もし、誰もが、健康で永遠に生き続けられる世界があるとして、そこに殺人鬼や独裁者がひとりでも紛れ込んだら、どうなるでしょうか?

彼の体はまったく衰えず、また食べていくためにあくせく働く必要がないとしたら、永遠に生きるその過程の中で、誰かが止めない限り、その人は悪事をしつづけないでしょうか?

すると彼を止めるために、血みどろの争いが必要になってくる。逆に、止めなければ、沢山のひとたちが犠牲になります。

・・・・もうこうなると、こんなの天国でもなんでもありません。むしろ、今の世界で悪人が放たれるよりも、何倍もひどい結果になりかねません。

だから、「天国」なるものを実現しようと思ったら、入り口で「規制」をかけることは必須だというのが論理的に明らかです。

ということは、ぶっちゃけ、「悪人」であっても、「悔い改めた悪人」でなければ天国には入れないと考えるのは当然すぎるくらい当然です。

「排除の論理は許せない!」

ですが、このプログレッシブ信者さんは、この社会に働く「排除の論理」に憤慨するとともに、天国には悪い者は入れないというなら、それは人間社会と同じじゃないか!そんなのおかしい!と喝破します。

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えーっと。ポリポリ・・・・

もしも、社会のルールに従おうとせず、常識がわからず、「矯正」しても治る見込みがなく、我々と全く違う道徳観をもち、善悪の判断ができず、全く違う価値観を持った人たちを社会に大量に招き入れたらいったいどうなるでしょうか?

この社会は、完璧なものではありません。しかし完璧でないなら完璧でないなりに、どうにか無用な争いと損失を避けて、人々が生産的な営みに集中できるようにする努力が長年なされてきました。

だから、法律というものがあり、道徳観というものがあり、善悪の判断というものがあります。

その中に、違う法律を掲げ、違う道徳観をもち、善悪の観点がまるで違う人々が入ったら、激しい争いになるのは必至です。

(余談になりますが、まさにこれがいま欧州で起こっていることです。「政教分離」「言論の自由」「男女平等」といった社会に、「イスラムこそが至上!」「冒涜は死刑!」「シャーリア法を施行せよ!」「異教徒の女は性奴隷!」という人たちが大量に入っていったら、ムチャクチャなことになります。っていうか、今まさになっています。だから、遵法意識、道徳観、善悪観がおおむね一致した人たちで社会を構成することは、平穏で生産的な社会を作るにあたって必須です。その一致がなければ延々と内戦が続くことになりかねません。)

とはいえ、それでもプログレッシブ信者さんは納得しません。

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「社会秩序に合わない人を排除する人間の古くからの習性・・・・・それに従う人々は悪魔の子」・・・?

ぶわっはっはっは!これは笑いました。

確かに、イエスの時代に律法の解釈をめぐって対立が生じ、既存の宗教権威がイエスを排除しようとしたのは事実です。

でも、「暴力的で悔い改めない人を排除するのは最も簡単なことですが・・・イエスは「いや、敵を愛しなさいと」」・・・って?

はあ?

イエスは、「盗むな、殺すな、姦淫するな」って確か教えてませんでしたか?僕の勘違い?

姦淫で逮捕されることは日本ではほぼありませんが、暴力を振るう人、盗む人、犯す人は、どうにかして隔離しなければ社会が崩壊してしまいますよね。

イエスはこのような行為の取り締まりにも反対していたのでしょうか?

およそ、社会が生産性を保つには、軍隊や警察といった暴力装置によって、構成員がこれらの行為から保護されることが必要です。

なんとなれば、突然誰かから襲撃されることもなく、財産や作物を盗まれる心配もないからこそ人々は生産活動に集中し、高い成果を挙げることができるのであって、

もし、常日頃から襲撃におびえていたら生産どころではありません。それこそ自警団を組織しなければやっていけないでしょう。

あまりにもこういった行為が蔓延したら、しまいには真面目に働くよりも人から盗むほうが効率がいいということになりかねません!

それでも暴力的で悔い改めない人を排除してはいけないのでしょうか?

弱い人が継続的に暴力の犠牲になりつづけるような状態が正しい状態なのでしょうか?

まあ確かに、このプログレッシブ信者さんが指摘するとおり、人間の社会システムは完璧ではありませんから、「排除」を前提とした社会秩序で無実の人も排除される事例が生じるのは避けられません。

しかし、だからといって秩序を守ろうとする行為自体をやめるわけにも行きません。このジレンマは社会が存続する間ずっと続くでしょう。


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ところが、この信徒さんは、神が行う「さばき」もまた、人間のさばきと同様欠陥だらけのものだと仮定しており、結果そのような「さばき」を行う神は偶像であると断定しています。

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いやはや、ずいぶん小さな神観です。筆者の考えでは、神は全て人の心中をお見通しであって、かならず正しい裁きを行う方だと思っていたのですが・・・・・

ま、全知全能の神を想像できないというなら、それはたんなる想像力の欠如ですから、それをプログレッシブ信徒さんの信仰の欠如と詰るのはやめておきます(←皮肉です(笑))。

おおいなる愛のカンチガイ

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ただ、我こそは「愛や寛容や親切を最も必要としている」人たちを思いやっている、と自称するなら、そんなプログレッシブ教徒さんたちがやるべきことはただひとつです。

社会に到底適合できないような、犯罪ばかり犯してしまう人達に向かって実際に手を差し伸べ、その人達が、どうにか再犯をしなくてすむように支えることです。

日本には、進藤龍也さんという、元ヤクザだった人が悔い改めて牧師となり、現在は、不良少年や出所者がまっとうに生きられるよう支える活動をしておられる方がいます。

プログレッシブ信徒さんたちも、このような働きを自らが行うか、金銭面で進藤牧師のような人を支えることが肝要であり、

天国は、な~い」とか歌っていても、いっさい何の解決にもならないということを知る必要があります。

筆者は、自分の教会の元メンバーで、さすがに刑務所入りはないがスレスレの生活を送ってきた男性を知っています。

はっきりいって、そのような人を支えるのは難しいことです。

長期的人間関係を築いたり、一つの仕事を続けるのがなかなかできないのです。筆者は、牧師に生活費を用立ててもらっても仕事を世話してもらってもその人が何度も辞めてしまうのを見てきました。

理屈では、「こんな生活やめたい」と思っていても、なかなかやめられない。

このような人達が抱えている問題は、怒りグセ、酒癖、薬物グセなど種々あるでしょうが、彼らの多くはそれがよくないとわかっており、むしろ、「こんなことはやめたい、でもやめられない」と葛藤しているのです。

それでは仮に、プログレッシブ信徒さんたちが、このような人達を前にして、悔い改めなくていいよ。」「悪いのは、キミタチを排除するこの社会なんだよ。」と「愛の福音?」を説いたらどうなのでしょうか?

罪や暴力をそのまま続けることを認めてあげたら、どうなるのでしょうか?

いや、そりゃまずいでしょう。絶対。(←そんなことをしたら、「じゃあその暴力の被害者はどうなるのか」って話がそもそも出てきます!)

現実的には、「俺だってイエス様を信じればどうにかして酒、(薬、喧嘩、盗み・・・etc.)をやめられるかも?」、という希望を彼らに抱かせてあげるのが本当の希望なのであって、

「悔い改めなくてもいいよ」というプログレッシブ的「福音?」は、むしろ、彼らや彼らの更正を支える人達の努力を真っ向から否定してしまうものなのです。

はっきりいって、これは多いなる「愛の勘違い」です。

それともプログレッシブ信徒さんたちは、犯罪傾向のある人達から恒常的に暴力の被害を受け続けつつ、なおかつ彼らに「やめなくていいよ」と言い続け、延々と生活費を渡し続けるのが正しいことだと、まさか思っているのでしょうか。

筆者は彼らの思想に接していて思うのですが、彼らは人生での色々な実体験というのに実に乏しいように見えるし、その言うことも陰影に欠けた単なる絵空事が多いという印象を受けます。

本当の希望を否定するプログレッシブ教義

実は、「イエス・キリストを信じれば、罪深い行いや悪い心から離れることができる」という希望は、上記でみてきたような、犯罪から足を洗いたいと思っている元犯罪者の人達だけでなく、いわゆる違法行為を一度も犯したことのない品行方正な人であっても持つべき希望なのです。

なぜなら、どんな人間でも一片の悪い心は持っているからです。そして、悪い心を持ちながら、悪いことをしないよう葛藤しつつ生きるのは、実は苦行以外の何ものでもないからです。

死んだあとそんな人生が永遠に続くとしたらそれは天国でもなんでもありません。

しかし、イエスを信じる人は、難しい言葉でいうと「聖化」されていくのであって、そして最後には新しく作り変えられると聖書は言います。これこそが希望です。

筆者が上に上げた男性の例でも、なかなか勤務先は安定しませんでしたが、目に見えて穏やかな性格になり喧嘩をしなくなったことだけは覚えています。

そのような変化の体験こそがイエス・キリストの力を知ることであって、「悔い改めなくていいよ」「社会が悪いんだよ」と吹き込むことは福音でもなんでもありません。

つまり、プログレッシブ教義は本当の希望を否定するのです。

全知全能の神の力もイエスの贖いの血の力も信じられないならば、それは本人のためには気の毒なことですが、「天国は、な~い(by ジョン・レノン?)」があたかもイエスの教えであるかのように言うのは単なる心得ちがいであって、ひいては世のため人のためにもならないということを知ってほしいものです。

ちょっと国内事情:反基地平和活動家牧師・暴力事件で懲役求刑

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ちょっと国内事情:反基地平和活動家牧師、暴力事件で懲役求刑

以前の投稿「山上の垂訓」にまつわるトンデモない思い違い」でちょっと触れましたが、

沖縄での、米軍基地関連施設の建設に反対する「反戦平和運動」の過程で政府職員に暴力をふるって逮捕されてしまった牧師さんというのがいました。

とはいえ、牧師が不祥事を起こすのはいまに始まったことではありません。着服、虐待、カルト疑惑・・・不祥事のタネはカト(カトリック)もプロ(プロテスタント)もなかなか絶えないものです。多くの教職者たちはそういったことをなくそうと真剣に努力しているものと筆者は信じていますが。

しかし、沖縄での運動をめぐり逮捕されたこの牧師さんの件についてはそう悠長なことも言っていられないと思ったので、

今回、ブログの表題からは逸れますが、「ちょっと国内事情」と新たにカテゴリを作って掲載することにしました。

吉田滋師のアツすぎた情熱

この牧師さんの名は吉田滋師。

この吉田師は、ブログでもちょっと触れた沖縄の米軍高江ヘリポート建設計画に絡み器物破損、暴行などの罪で昨年起訴された「平和」活動家、山城博治氏というひとと一緒に活動していたのです。

この山城氏、他の罪状はともかく暴行(および脅迫的言辞)については全て動画が確保されYoutubeなどで広く出回っており、どこをどう見ても「平和」な活動家とは言えないことがこれ以上ないほど明確に知れ渡っています。(下動画参照)




で、吉田滋師もまた、以前からボートを駆って海上抗議活動などに従事していたのですが、今回は山城氏と一緒に政府職員に暴行したということで逮捕されたうえ、家宅捜索を受けました。

メジャー教団が政府の「人権侵害」を「糾弾」

ところが、日本基督教団や日本バプテスト連盟といったメジャーな教団が、あろうことか吉田師はもちろん、(ムカンケーの)山城氏の逮捕にまで、

「不当逮捕!」

「人権侵害!」

「政府はすぐ釈放せよ!」

と声をあげはじめたのです。


たとえば日基。

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・・・・・・・・・・・

昨日、高江の米軍ヘリパッド建設工事を巡って、防衛省沖縄防衛局の男性職員にけがをさせたとして、傷害と公務執行妨害の容疑で、すでに17日に別件で逮捕されていた山城博治さんが再逮捕され、そして、日本基督教団神奈川教区林間つきみ野教会の吉田慈牧師も同容疑で沖縄県警に逮捕されたとの報に接しました。

私たちはこのことがヘリパッド建設への抗議行動を弾圧するために行われた、不当な逮捕であると感じています。

報道によると、逮捕容疑は8月25日朝、沖縄防衛局員の腕や肩などをつかんでケガをおわせたことが理由と伝えられていますが、なぜ二か月も経とうとする時点での逮捕なのでしょうか。また、ヘリパッド建設に反対する市民たちが機動隊員によって首を絞められ、車にひかれ、怪我を負わされ、失神させられ、救急搬送されることが日常的に行われています。そのように、非暴力で反対する市民たちに対しては、暴力で制圧している実態があるのです。つまり、ヘリパッド建設に反対する者たちへの有無を言わさない力づくでの排除を正当化する皆さんの姿があるのです。ゆえに、私たちはこの二人の逮捕は全くもって不当以外のなにものでもないと判断します。沖縄防衛局員のケガの具体的な内容にも、疑念を持たざるを得ません。』

・・・・・・・・・・・
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え?制圧は座り込みとかの違法行為を排除する行為ではないのでしょうか?それに相手が暴力で制圧している実態」があるから、吉田師も暴力ふるっていいっていう理屈?なんかキリスト教的におかしくない?

そしてバプ連も。どうしたわけか、信者でも牧師でもなんでもない山城氏の逮捕に猛抗議。


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・・・・・・・・・・・

沖縄県辺野古の新基地建設と東村高江のヘリコプター着陸帯(ヘリパッド)建設に反対し、非暴力で抗議行動を続けている沖縄平和運動センター議長の山城博治さんが、2016年10月17日ヘリパッド建設予定地周辺の森の中に置かれた有刺鉄線1本(時価約2000円相当)を切断したとして器物損壊の疑いで準現行犯逮捕されました。その後も釈放されることなく次々と新たな罪名の下で再逮捕が繰り返され、接見禁止の状態で長期の勾留が続いています。また山城さんのほかに2人の男性の長期勾留が続いています。

これは憲法に保障された「表現の自由」(21 条)、「行動の自由」(22 条)の侵害であり、「法律の定める手続によらな」い(31 条)違法行為です。勾留の理由とされている罪証隠滅のおそれもなく、検察は公判維持のために必要な捜査をすでに終えています。接見禁止という厳しい措置をしてまで起訴後の勾留をする理由は認められません。110日以上の勾留は「不当に長い拘禁」(刑事訴訟法91条)に当たる違法行為です。

・・・・・・・・・・・

----------------------

????????

あの、吉田師はともかく、山城氏って、キリスト教団体にはいっさいムカンケーなんですけど・・・・

なんで?なんで?

疑問は尽きません。

世の中は甘くない・・・・・・・・・

しかし、こういった教団の思いとは裏腹に、吉田師の審理は粛々と進んでいたようです、

現地事情にくわしい手登根 安則さんというかたのFacebook投稿から引用させていただきましたが、どうやら吉田師には那覇地裁において懲役の求刑がなされたようです。


判決は出てみるまでわからないものですが、吉田師の場合、ちょっとカッとなって、とか言い訳が通用しなさそうなところがあります。以前から確信的に活動に従事していたからです。

そこで疑問が出てきます、もし吉田師が有罪判決を受けた場合、

日基は振り上げた拳をどうするのでしょうか?

「不当判決だ!」とあくまで戦うのでしょうか?

それとも、しおらしくあきらめて、刑事事件で有罪となった教職者を解雇するという世間なみの判断をするのでしょうか?

問題は、それだけではありません。

山城氏の国連抗議活動にまつわる失笑の広がり

吉田師とともに逮捕された山城氏ですが、保釈されたことを受けて、なんとスイスの国連くんだりまで出かけ、自分が人権弾圧されていることを滔々と述べたそうです。

ところがところが、世の中にはカウンター活動家という人たちがいて、この山城氏が政府職員に暴力をふるっている動画を現地で周囲に見せ、実態を知らせたのいうので、山城氏のウソはすっかりばれてしまい、チベットといった本当の弾圧を受けている国の人たちからは呆れられてしまう始末

しかし、そこでますます困るのは、

日基やバプ連といった、余計なことに首を突っ込んだキリスト教団体ではないでしょうか?

もしも多くの日本人が、山城氏のような人を、よくてイミフメイのオジサン、悪くて、虚偽をもって日本を貶め破壊しようとする極左活動家としてしか見られなくなってしまっている(っていうか実態がそうなのだろうと筆者などは思いますが)としたら、

「そんなイミフメイのオジサン、あるいは極左活動家にそんなに肩入れするこのキリスト教団体っていったい何なの?」

という疑問が当然湧いてこないでしょうか。

キリスト教って平和の宗教じゃないの?」

「牧師が政府職員に暴力ふるうって矛盾してない?」

これでは宣教どころではありません!

センセー方にお願い:「頼むから首突っ込まないで!」

以前の投稿でも指摘したように、聖書には「平和を作る者は幸いである」とは書いてあっても、「(自分には到底達成できないような国際間の)平和を作ろうとして、政府批判、抗議活動、あげくのはてには非合法の破壊・暴力行為に及ぶ者は幸いである」とは決して書いてありません。

その二者の区別を日本のキリスト教界の多くのセンセーがたが指摘しようとしないのが本当に不思議でたまりません。

ましてや、違法かつ暴力的な活動に従事した牧師や無関係の活動家をここまで擁護することの気が知れません。

おそらく左翼的な志向が骨の髄までしみついている教職者が大勢いるのでしょうか。

筆者は、キリスト者は左派的な思想を持ってはいけないと言うつもりはありません。しかし、牽強付会な聖書解釈をもって左派的な思想をあたかも教団の総意であるかのように発表したり、ノンポリ(あるいは右派の)信徒に対しては無論、未信者の国民にまでも政治活動を通じて押し付けようとするのはあまりにも不心得なのではないでしょうか。

吉田牧師の判決は7/27に那覇地裁でいいわたされるようですが、筆者は、日基やバプ連のセンセーがたが、よもや「不当判決!断固抗議!」の声明を出したりしなければいいが、と願っています。

もしそんなことになったら、キリスト教→反社会的極左団体 という誤解が未信者の国民の間で広がっていく可能性がおおいにあります。

キリストの十字架のために恥を受けるなら我慢もできましょうが、こんなことのために反発を受けるとしたら、本当に理不尽、無駄、無意味なことだと筆者は思います。

宣教というのは、多くの場合未信者の人たちに対して「オフェンシブ(気分を害するようなこと)」な内容を含むものです。

たとえば筆者は、何度となく未信者の人たちから以下のような言葉を投げつけられてきました。

「クリスチャンだけが天国に行くなんて信じてるの?じゃあ私は地獄行きってわけ?」
「クリスチャンでなくたって良い人はいるじゃないか。それなのに天国にいけないなんて不公平だ!」
「罪?別に宗教になんかに頼らなくたって私は何も罪なんか犯してないけど?」

しかし、宣教しようとする人は、こういった反発にさらされてもなお、辛抱強く天国とはなにか、罪とはなにか、十字架とは何か、を説明する必要に迫られます。

ところが、あるセンセー方の心得違いのせいで、今度はこんな言葉を投げかけられかねない状況にあるのです。

「キリスト教って反政府なんでしょ?共産党みたいなもん?」
「ああ、ウリスト教ね、いわゆる。反日でしょ?」

筆者は、日基やバプ連のセンセーがたに言いたい。

たのむから余計なことに首を突っ込まないで!

教会の反政府活動が国会で取り上げられる日がくる・・?

最後にロゴス・ミニストリー様で取り上げられていたちょっとブキミな話を

なんと、カトリック教会の中で、信仰の名のもと、政権に反対するデモなどの活動をするべし、とする教えが説かれているといい、それについて国会議員が公安委員長に調査を促しているのです。

ロゴス・ミニストリー様のブログで引用されていた動画もご紹介します。


以下、動画の問答の内容を書き起こしました。(強調筆者)

吉田師や彼を擁護するセンセー方がいる限り、このような問答の主語がいつか、「プロテスタント教会では・・・」とならないという保証はどこにもありません。

主の御名のために恥を受けるのでなく、この世のイデオロギーにかぶれてハンパな左翼ごっこに(それも信徒の浄財を使って)手を出したがために権力による取締りの対象となるとしたら、こんなに情けない話はありません。

筆者は、プロテスタント界の教職者たちが一人でも多くこの事態のまずさに気づいてくれることを願ってやみません。

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(中丸議員)

最近、外務省の、ええ、欧州局の局長宛に持ち込まれた、その、意見趣意書についてお尋ねします。

ええこれは、まあ、あのカトリック教会なんですけども、岡山県の赤磐市市議会議員から届けられた意見趣意書があったんですけど、バチカン市国から指名されて日本に配属されている、いわゆる司教の方々が、どういったことを信者の皆様に対して言っているか、ということなんですけども、ちょっと一例を挙げてみます。

反政府デモ活動への積極的参加することは信者の義務であると宗教指導。

中革派や革マル派が主催する活動、デモ、反政府デモ活動への積極的参加することは信者の義務であるとの呼びかけ。

信者として反政府意識を持つように呼びかけ、反政府活動は信者の義務だと宗教指導。

宗教の言葉を引用し、日本型社会構造、および文化意識への批判を行い、反対運動をとるのは信者の義務だと扇動。

憲法改正は戦争を起こす行為であるとの議論そのものを否定し、また、改憲反対活動を信者の義務として、奨励し、遂行。

いわゆる従軍慰安婦なるものの存在を政府に認めるように求める活動は信者の義務であるとして奨励・遂行。

まあこのようなことをですね、ええ、全国のカトリック教会組織を用いて行っているようなんですけど、これ、ここだけ見ればですね、もう完全に反社会活動、と、もういわざるを得ないような内容なんですけども、まあそれについてどうか、という趣意書が出ている、ということなんですけども、外務省の参考人今日来ていただいていると思いますので、その取扱今どのようにされているか、教えていただきたいと思います。

外務省、長谷川大臣官房審議官。

ええお答え申し上げます。あの、今議員がご指摘の紙は当方でも受け取っております。あの、日本国内におけるカトリック教会の動向等について、外務省としてお答えする立場にございませんので、コメントは差し控えさせていただきたいと思います。

中丸君。

ええ、まあ受け取ったということだけだと思うんですが、これはですね、ほとんど、あの、わが国に対する内政干渉、もっと言えば国内騒乱扇動を組織的に行っているようにも受け取れるですね。まあこれが、カトリック教会が、という意味ではなくて、こういう宗教活動からどんどん発端を発していった、まあ昔オウム真理教と言う事件も国内にはあったわけですから、まあそこまでのものとは思いませんけども。まあ、こういう存在があってまあ外務省として答えられない、ということではあるとは思うんでしたけども、国家公安委員長、こういったですね、ええ国内での、そういった、でももちろん信教の自由は大事にしなければいけない。言論の自由も大事にしなければいけない。しかしこれ、明らかなこんな反政府活動的なものになってきたものっていうのはどういうふうに考えたらいいでしょう。ご所見をお伺いいたします。

古屋国家公安委員会委員長。

ええこれはまず一般論として申し上げますとですね、やはり警察がそういった諸外国から、ええまあいろいろな対日の諸工作とか仮にあったということはですね、そういったことは、実は平素から相当我々も関心を持って必要な情報はしっかり集めています。はい、あの、具体的な中身の言及についてはご容赦ください。ええその中で、具体的に、違法行為というものがある、ということならば、私たちは厳正に取り締まっていきます。まあ、こういうことが警察の基本スタンスであります。

中丸君。

非常に頼もしいお言葉ありがとうございます。

ーーーーーーーーーー

(以上)

プログレッシブ・キリスト教神学に応答する(1)そもそも山上の垂訓って何?

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プログレッシブ・キリスト教の水面下での浸透:欧米から日本へ (21)

プログレッシブ・キリスト教神学に応答する(1)

じつに20回の長きにわたって、プログレッシブ・キリスト教(別名:キリスト教進歩主義)を取り扱ってきましたが、その中でやや思うところもありました。

プログレッシブ信徒であるK.F.さんやその他の読者さんが指摘されたように、(筆者としてはユーモアを交えた風刺であっても)ただのイジワルのように聞こえてしまったり、おふざけが過ぎてしまって、筆者自身が伝えようとするメッセージがなんだかよくわからなくなってしまったきらいがあったかも知れないと思ったのです。(ちょっと反省(汗))

そこで、今回以後はマジメ気味なトーンに戻って、プログレッシブ・キリスト教神学に応答していきたいと思います。

そもそも山上の垂訓って何?

多くのプログレッシブ信者さんは「山上の垂訓」をその信条の中心に据えているようです。

そして、この垂訓を文字通り厳守することが大事で、またそうすれば周囲に救いが広がっていき、ひいては世界平和につながるといった思想も見受けられます。

しかし、本当にそうなのでしょうか?

そこで、拙いながらも筆者の解釈を交え、「山上の垂訓」はプログレッシブ神学を支持するかどうか、を検証したいと思います。

そもそも悔い改めって何?

山上の垂訓のテクストを見る前に重要な背景を頭に入れる必要があります。

それは、この説教が1世紀イスラエルで、ユダヤ人の弟子たち(イエスに従う者たち)に向けて語られたという事実です。

イエスは、宣教を開始するに当たって、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(4:17)と宣言したと記録されています。

教会でこういった言葉をよく聞くクリスチャンにとっては、特段なんの含意もなく、当たり前に思えますが、なぜ、御国が近づくということと悔い改めがつながるのでしょうか。

これを旧約聖書の文脈で考えるとこういうことです。

律法における神とイスラエルの民との契約においては、イスラエルの繁栄は、民が一心に神に心を向けているか否かにかかっていました。

申命記28の冒頭にこうあります。

もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。

ところが、その同じ申命記で、もし民が神にそむいたら「もろもろののろいが臨む」とも警告されていました。病気、作物の不作、戦争での敗北のほか、子供たちは捕囚にとらわれていき、(28:32/28:41)外国人の地位はますます高くなり、イスラエル人はますます低くなる(28:43)ことが預言されています。

そして、まるでこの言葉が成就するごとく、列王記・歴代誌に記録されるイスラエル・ユダ王国の変遷は、1)「背教」→「外国に敗北を喫する」、2)「悔い改め一心に主を求める」→「神に助けられる」ということを何度も何度も繰り返し、3)最終的には背教がきわまって「バビロン捕囚」で終りました。

実は、旧約聖書の登場人物の中に、あるきっかけで御国が近づいたと考え、これらの経緯を念頭に自ら率先し悔い改めを行ったひとがいます。それは預言者ダニエルです。

神の国が来ると思って悔い改めた預言者

ダニエル9:2「・・・・私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。

エレミヤ書の中に、バビロン捕囚から70年後に都が再建されるという趣旨の聖句を見つけたダニエルは、そこで、「神殿再建」→「イスラエルの繁栄が回復される」と『早合点』してしまったのです。(→アーノルド・フルクテンバウム博士の説。)

そこでダニエルは民族を代表して悔い改めの祈りを捧げました。(9:4-19)上記に挙げた、モーセを介した契約を民が守らなかったがためにわざわいが下って虜囚の憂き目にあっていることを素直に告白し、(「このわざわいはすべて、モーセの律法に書かれているように、私たちの上に下りました」(9:13))主が怒りをおさめ、聖所に再びその威光を輝かせてくださるよう懇願しました。

しかし、その後天使が駆けつけ、ダニエルが想像したような王国の回復のためにはメシアが到来し、死ななければならないことを、正確な年数とともに告げます。(25-26)(→これも掘り下げると膨大なテーマで、ユダヤ教徒に対してイエスがメシアであることを立証することのできる重要な箇所なのですが、今はスペースがないので軽くしか触れません。)

つまり、モーセ律法の約定を下敷きに、イスラエルの回復を心から望んでいたユダヤ人たちの現状理解を考えるとこうなります。

「ローマに支配されていたそのときの現状(まさに「外国人の地位は高くなり、自分たちは低くなる」)は、神の戒めに背いたことが原因であり」

「国を取り戻すには「主に立ち返って、心をつくし、精神を尽くして主の声に聞き従う(申命記30:1-3)」ことが必要だ」

と考えていたと推察できるわけです。

だから、「悔い改めなさい、御国が近づいたから」との呼びかけを受けたとき、彼らはほぼ自動的に「イスラエル王国の回復が近い」というニュアンスで受け止めたと考えられます。

(だから、ここでイエス様がいう悔い改めは、(異邦人にとってはありがちのニュアンスである)「ただ悪いことをやめる」というのではなく、イスラエルの神、主に、一心に心を向けるということなのです。)

山上の垂訓は一種の預言である。

これらのバックグラウンドを念頭にマタイから山上の垂訓を見てみましょう。

5:3「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
5:4悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
5:5柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
5:6義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
5:7あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
5:8心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。

同じ形式なのが、詩篇によく出てくる「幸いなことよ」です。

1:1幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。

「これこれこういう人は幸い」→「あとでこのようになる(いいことがある)であろう」

たとえば、「時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

このような図式の詩篇は多数あります。

ところが、イエスのバージョンは、前段に出てくる人物像が今までのものとやや違います。

「心の貧しい者」自分が霊的に貧しい状態であることを自覚している者です。(多くのコメンタリーはこのように説明しており筆者も同意します)

これを確認するかのように、イエスは、自らを霊的に高い状態であると自認していたパリサイ人たちではなく、遊女や取税人(特に、神の前で胸を打ち、「罪びとの私をお許しください」と祈るような者でしょう)が先に御国に入ると言われました。

(もっとも、プログレッシブ神学でよく言われているように、社会から弾き出されている人全般ということではなく、この時点でイエスが話しかけている相手はヤコブの子孫でありイスラエルの神・主を信じている者であるという前提を忘れてはいけません。)

「悲しむ者は幸い」個人的な状況のみならず、この世のあり方そのものに悲しみを感じる人です。

この対極にあるのが、黙示18:7のバビロンの淫婦です。(「私は・・・悲しみを知らない。」逆に初臨のイエスは「悲しみの人」(イザ53:3))。

これらの聖句に照らせば、この世でのご利益的幸福を100%保証してくれる宗教は信用しないほうがいいということです(苦笑)。

柔和な者は地を相続する

この聖句はちょっと問題で、あきらかに預言的な内容を含んでいると思います。

旧約聖書の文脈では、ある特定の「地を相続する」といえば、神がアブラムの子孫に与えると約束された地、

そして、イスラエル12部族に分けられた(ただしレビには与えられなかった)ゆずりの地です。

これらはイエス初臨から今に至るまで実現を見ていません。(・・・だってパレスチナ人たちが「よこせよこせ俺たちの土地だ」って騒いでるし・・)

また、これをあとづけで「象徴的に」解釈し、「霊的には」すでに実現したかのように考えるのは無理があります。

ところでこれについて参考になる箇所があります。

イエスは弟子たちの「誰が偉いか」という議論を「一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。」(ルカ22:26)と片付けたあと、じつに奇妙なことを仰います。

あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」(22:28-30)

しかし、この奇妙な箇所も、これは未来に来る千年王国のことだ、と考えれば簡単に理解できるのです。

したがって、柔和な者は、将来文字通り地を受け継ぎます

つまり、イエスに従って行った者は、いつか未来の時点で、地を治める(12弟子にあっては、特定的に、イスラエルの12部族とそのゆずりの地を治める、いっぽう異邦人キリスト者は、どこ、という特定はありませんが、来るべき世において王・祭司として「地の上を治める」ことは言われています(黙示5:10)*。

ただしそのためには彼らはこの世の支配者と違い、柔和でへりくだった者になる必要があるのです。

*しかし、このことが啓示されるのは山上の垂訓からだいぶあとのことですから、この時点ではユダヤ人信者に対して与えられるイスラエルの地、という考えで間違いないと思います。

いずれにせよ「地を相続する」ということが霊的に、比喩的に成就することはありえません。

それに、義に飢え渇いている者、悲しむ者、あわれみ深い者、心のきよい者・・・イエスにつき従うこれらの者たちは、この世において、部分的にはその受けるものを受けられるでしょうが、(たとえば霊的な意味で慰めを受け、義の満足を感じ、あわれみを受け、神を「見る」等)やはりその文字通りの完全な成就はみていませんから、

これらの成就は未来にあります。つまり預言です。

だから、イエスを信じることは、来るべき王国の「(地上での特典つき)予約券」を手に入れるようなものなのです。

筆者は個人的に、イエスを信じることによりあふれんばかりの祝福を受けてきたことを告白しますが、それらの祝福も、千年王国で見る祝福のほんの前触れにすぎないと考えています。

イエスに従う者は千年王国では比べ物にならないほどの祝福を受けます。

ともあれ、これらの6つの聖句を読むにおいては、

1.イエスは王国の回復を待ち望んでいたイスラエルの民に話しかけていたこと、(「イスラエル王国は決して回復しないよ」とは言っていないことに注意

2.「悔い改めて、一心にイスラエルの神に心を向ける」ことを暗に前提として求めていたこと、(だから社会で「周縁」に追いやられた人なら誰でもいい、というわけではないし、信じる神は何でもいいから(あるいは神を信じなくてもいいから)モラル的に良いことをしさえすればいい、というわけでもない。)

3. これらの聖句の中には「霊的な解釈」の余地がなかったり、また成就しきっていないものもあるので、天の御国の完全な成就は2000年後の今に至っても未来まで待たなければならないこと、

この3つを念頭に入れるべきです。

さらに、後の箇所でイエスに従う者は迫害を受けることも示唆されています。従って、律法の契約にあったように「悔い改め」→「王国の回復」という流れではない、ということがうっすらと示唆されているわけです。

ともあれ、ここではちょっとそこから逸れて、前回の投稿の流れもあり筆者がいちばい言いたいことを取り上げさせてもらいます。

平和ってなに?

さらに、以前にも触れた。「平和をつくる者は・・・」は果たして「反戦平和運動」を支持するか、について。

5:9平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。

では、ここでいう平和を作るとは具体的には?

繰り返しになりますが、この聖句は1世紀イスラエルのユダヤ人信者に向けて語られています。これを念頭に、山上の垂訓の以下の聖句をみてみましょう。

ちょっと飛びます。

5:21-24昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。 だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、 供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。 

ここでいわれているのはまず兄弟との平和を保つことです。

5:25-26あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。 まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。

次に、隣人との平和ということになります。

そしていよいよ・・・

5:38-42『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。 求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。

そして、「敵」との平和です。プログレッシブ信徒さんが大好きな箇所ですね。

ここで「あなたに一ミリオン行けと強いるような者」という聖句に注意。マタイ27:32で、イエス処刑の任に当たるローマ兵が「シモンというクレネ人を見つけたので、彼らは、この人にイエスの十字架を、むりやりに背負わせた。」という箇所でその実態をかいま見ることができる通り、当時の支配者ローマ兵の横暴をあらわすものと言われています

5:43『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、実際には「敵を憎め」と律法には書かれてはいないのです!イエスが「あなたがたは・・・・と言われた」と言う箇所と「・・・と書かれている」と言う箇所の違いには注目すべきです。つまり、口伝で言われていることと、律法に実際に書かれていることは往々にして食い違っていたりするのです。

5:44しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 

よくこれをもって、イエスは旧約聖書の原則を「コペルニクス的大転換」でひっくりかえした、というような理解がなされていますが、実は違います。イエスはちゃんと旧約聖書を踏まえたうえで教えを展開しているのです。

実際に、箴言25にはこのような表現があります。

21-22 もしあなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。あなたはこうして彼の頭に、燃える炭火を積むことになり、主があなたに報いてくださる。

この箴言を念頭に、山上の垂訓の続きを読んでみましょう。

5:45-48それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

プログレッシブ的には、この部分をとって、完全絶対主義パシフィスト、テロリストとも戦わない、さらにはそれを応用して、「このように書いてあるのだから、神は(未来永劫)悪人を裁かない」、というとんでもない結論に達する場合さえあります。

しかし、この箴言25との関係から明白なのは、そのような者にもよくしてやるのは、相手の頭に「炭火」を積むためだということです。

(ローマ書12:20で、パウロもこの箴言を引用しているのに注意!「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。」)

だから、これらの箇所は、決して、それで「愛が広がっていく」とかそういうことが主眼ではない、のがわかります。(もちろん、それで「愛が広がっていく」ことが絶対起こらないというわけではありませんが。)

これを神と人全般に置き換えれば、こういうことです。

神が悪人に対して忍耐し、むしろ「悪い人にも・・太陽を上らせ、・・正しくない人にも雨を降らせ」ておられるのは、(悔い改めを待っているという意味もありますが)神の義がますます明らかになるとともに、悪人の悪もますます明らかになり、最終的にいつか神が下す悪人への裁きが100%正しいということが誰の目にも明らかになるためでもある、ということです

参考:黙示録22:10-11「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、きよい者はいよいよきよきことを行ないなさい。

「敵を愛しなさい」は神の義があきらかになるため

そんなはずはない!神は悪人を愛し、決して罰することはない!全員天国に行ける!」そんな声がプログレッシブ信徒さんたちから聞こえそうです。ですので、2つ、わかりやすい例をあげて筆者のポジションを説明します。

この、「神の無償の愛」のわかりやすい例の筆頭がイエス様とユダの関係です。

イエスはユダが裏切ると分かっておられましたが、最後の晩餐の席で食物をひたして与えました。

「Manners and customs of the bible lands」という本によると、食事の席で主人がパンをとってそれを浸して誰かに与えるということは、特別な親愛の情がこもった行為でした。

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(本から引用:てづから「あ~ん」と食べさせるイラスト。日本人には、いい年したオッサンどうしがこれをやっている絵図はちょっと(汗)・・かも知れませんが(笑))

その後、ユダはやはり裏切りイエスを祭司長たちに売りましたが、イエスの処刑ののち後悔します。(しかしその後悔は、「メタノイア」→悔い改めに至る後悔、ではなくって「メタメロマイ」という言葉から来た、ただの後悔。)ユダは、イエスをメシアとは信じませんでしたが、イエスが「正しい人」であることはわかっていたので、この行為を激しく悔いることに。

しかし、イエスがもし「どうせこいつは裏切るから」とユダを冷遇していたらこうはならないはずです。ユダには「先生はひどい人だからオレはやむにやまれず裏切ったのだ!そうだ、先生がオレを追い込んだのだ!」という言い訳も生まれるでしょう。(たいてい、悪いことをしてしまったとき人は自分を正当化する理由をすばやく見つけます・・・ってオレも気をつけなきゃ(汗))

「完全でありなさい」と書いてある部分を見て、「大変だ!オレ完全にならなきゃ」と慌てる向きもあるでしょう。またプログレッシブ的にはこれらの聖句を逆手にとり軍隊を完全否定する絶対平和主義や「ホレ見ろ、だから神は決して裁くことはない!」とトンチンカンな結論に持っていきます。

しかし、文脈を考えれば、神がそのようにして悪人を扱われるのはご自分の義を完全に明らかにされるためであり、信者も悪人との関係でそのような「完全さ」(ギリシャ語では「成熟」の意味もあり)を表すことを期待されているのです。

全ては、神の義が明らかになるためです。これ、重要だと思います。

それだから、1世紀のイエスの弟子たちがあえて迫害者に実力で反抗せず、神のごとくの忍耐を見せたのは、彼らの義が際立ち、迫害者(当初はユダヤ人宗教支配層)がいかに不条理かを際立たせるためであった、と理解できるのです。(参考:拙稿「絶対非暴力主義と「敵のために死ね」マントラは聖書的か」で、使徒パウロが自らにはなんの落ち度もないこと、迫害する者にはなんの大義もないことを徹底的に裁判で主張している様子を見ています。)これは、異教徒であるローマ人にも、「不思議だ。いったいこのイエスの信者たちとは何者なのだろう?」という驚きの念を与えたであろうことは想像にかたくありません。

これを、もっと卑近な例に例えたらどうでしょう。

たとえばある会社に、態度の横柄なA氏と、そのA氏に向かって、あくまで平静に、穏健に、そして相手のことを思って接し、誠心誠意接する部下のBさんという社員がいるとします。

Bさんは、Aさんからどんな罵声を浴びせられてもその態度を変えません。

そのうち周囲の人は「Aさんってサイアク。ほんとヒドいよね。それに比べてBさんって人間できてるわねえ。」と噂し始めないでしょうか。もちろん、会社組織の力学上、それでAさんがすぐに失脚することはないかも知れませんが、Bさんの態度は周囲の人間に長く印象を与えると同時に、Aさんの悪も浮き彫りになります。

それに対し、BさんがAさんを殴って会社を辞めてしまったら「ま、どっちもどっちよね」ということになりかねません。Bさんの義は示されず、Aさんの悪は忘れ去られます。

で、聖書に戻りますと、旧約を念頭にこの聖句を眺めるなら、

Corey博士の死ぬ死ぬマゾヒズム、Boyd博士の「テロ幇助のススメ」、はたまた、K.F.氏の「いつかきっと爆発的に世界平和がぁ~」といった無根拠な期待のどれでもなく(ゴメンネー、でもだって本当にそれが実現する根拠がみあたらないんだもん・・・)

むしろ箴言25を念頭に、この聖句を適用するべきなのです。(簡単に実践できることではありませんが。)

「平和」問題のまとめ

しつこいようですが、これらの説教は1世紀イスラエルのユダヤ人信者たちに向けて語られたものであることを思い起こさなければなりません。

彼らはユダヤ人共同体を持っていたほか、フェニキア人といった異邦人たちも身の回りにいたことが記録されていますし、目下の「敵」であるローマ兵も目と鼻の先に住んでいたに違いありません(とはいえ、ユダヤ人に好意的でイスラエルの神を畏れるローマ将校がいたことも聖書には記録されています)。

だから、ここでいう「平和」、は、現代ではよく知られるところとなっている、国家と国家の間の「世界平和」といった実体のない「理念」的なものではなく、face-to-face というか、実際に顔をつきあわせている者どうしのきわめて実際的なものであったであろうことが想像できるのです。

(その当時ローマには、そもそも国外に敵らしい敵はいなかったわけだし・・・)

兄弟たち(同じイスラエル民族)の間での平和

ときとして利害関係が衝突する隣人たちとの平和、

そして、イスラエル千年王国の文脈からすれば、排除されるべき敵である(しかし近くに住んでいる)ローマ兵・将校たちとの平和。

だから、私たちキリスト者も、「戦争ができる国にするな!安保法制廃止!」と政府につっかかっていったり、実際には会ったこともない北朝鮮の独裁者との間の平和を夢想したりするのではなく(別にしてもかまいませんが、聖書を根拠にその立場を補強することはできません。)、自分が face to face で出会う人との間に平和をつくる努力に集中したほうがいいと思います。

・・・ということは、自分の国の政府や指導者に対して、「ア○やめろ!」「ア○政治をゆるさない!」と怒りをぶちまけるというのは、どう考えてもこの山上の垂訓のメッセージと一致しないと思うのですが、いかがでしょうか?

参考:ローマ12:18あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。 

まとめ。

  1. イエスのいう「悔い改めなさい」は、ただ単に(一般的なモラル基準でもって)悪いことをしない、ということではなく、イスラエルの神、主に一心に心を向けることである。また、振る舞いさえよければどの神様を信じてもいいということではない
  2. 「敵を愛せ」、「完全でありなさい」、は、別にそれで愛が世界中に広がってハッピーエンドになることを示しているのではなく、悪人の悪が明らかになり、何よりも神の義が明らかにされるためである
  3. 「平和をつくる者」は、自分が実際に会う人、あるいは近くに住んでいて会いそうな人との平和を指しているのであって、自分が会ったこともない外国の指導者との平和を構築するために、自国の指導者にケンカを売るのは本末転倒である

以上です。

Benjamin Corey 博士:無責任牧師

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プログレッシブ・キリスト教の水面下での浸透:欧米から日本へ (番外編)

Benjamin Corey 博士:無責任牧師

プログレッシブ・キリスト教キリスト教進歩主義)の指導者の一人、Benjamin Corey師の投稿は、もうパターンが見えてきたので、最近はあんまりいじるまいと思っていたのですが、腹が立ったのでまた引っ張ってきてしまいました。




イエスは「平和を作る者は幸いです」と言われた。「炎と怒りで応じる者は幸いです」ではない。しかし、これらが混同されることがあることが分かった。

これは、つい先日米国トランプ大統領が、北朝鮮の度重なるミサイル発射と核開発について、(挑発をやめないならば)「北朝鮮は世界がまだ見たこともないような炎と怒りに直面することになるだろう」と述べたことについてのコメントです。

また、トランプ支持者の福音派牧師、Robert Jeffress師についてCorey師はこうも言っています。

Jeffress師は、北朝鮮情勢についてこう発言「悪を行う者に対してどう対処すべきかということで言えば、聖書のローマ書は、とても明確だ。神は、悪を止めるため、支配者に対して、戦争を含むあらゆる手段をも行使する完全な権能を与えた。」「北朝鮮の場合では、神はトランプに金正恩を除去する権威を与えた。」

するとCorey師。

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キリスト者として、当然のこと我々はイエスに従う。イエスは我々に、平和を求め、衝突する者たちとの和解を追求し、隣人と敵を同様に愛するよう教えた方だ。

私は誰が「中」で誰が「外」なのかを言うことは好きではないが、正直、自分をキリスト者と呼びながらどうしてこんなことが言えるのかわからない。

Jeffress師の物言いは、たしかにギョッとするような内容です。take outなんて、まるで軍事映画かスパイ映画みたいな言い方ですが、要するに抹殺、とか除去とかいうことです。

しかし、実質的に今北朝鮮を止める能力と意欲を両方持つ人物は事実上世界中にトランプ氏しかいないのです。(プーチンは止める気そもそもなさそうだし、習金平は自分は対して危険はないからトランプにせっつかれない限り何もしないでしょう。)

Corey師はアメリカにいますから、ICBMに核弾頭が装備され、多数の偽装ミサイルとともに高高度高角度からグアム、ハワイやアメリカ本土に撃ち込まれるようになるまでまだまだ時間があるとでも思ってのんびり構えているのでしょう。

ところが、日本へは、ミサイルがEEZに着弾しています。(北海道から閃光が見えたという報告もあります。)もう、いつなんどき領海上を航行する船舶に着弾するなんてことや、国土に着弾して死者や損害が出てもおかしくありません。

(これは痛烈な皮肉ですが、国民を誘拐されたうえにこんな目に遭っても、憲法9条への信仰を堅く保ち、いっさい何の反撃もしない日本という国を、Corey博士は、プログレッシブ教義に照らし世界のプログレッシブ信者の模範としておおいにほめてくれてもよさそうなものです。)

冗談はともあれこれで何かあったら、アメリカより先に日本と韓国がまず真っ先に大被害を受けるでしょう。

いや、シナリオはそれに留まりません。日本壊滅→アメリカ軍発動→北朝鮮壊滅なんていうシナリオさえも甘いかも知れません。

北朝鮮がミサイルで脅しにして徐々に周辺国を譲歩させて経済制裁を解除させ、ますます独裁体制と軍備の増強に邁進し、その間にその技術がイランやらシリアやらの(金氏は仲がいい!)独裁者たちに渡っていく、なんてことも考えられます。

こんなの最悪です。今はとにかくどんな手でも使って核兵器を断念させるしかないのです。

「平和を作る者は幸いです」?そのとおり、アーメンです。

それで、Corey博士はどのような方法で平和を作っていますか?どのような方法で北朝鮮の軍事挑発を思いとどまらせようとしましたか?

いい加減にしてほしいです。この人は他人の命や安全をどう思っているのだろう、とつくづく疑問に思いました。

日本が、アメリカが平和だったのはなぜか

Jeffress師のような言い方はたしかに議論を巻き起こすと思います。

しかし、現代においてアメリカが世界随一の巨大な軍事力を備えることを神が許した、ということは決して無視すべきではないし、われわれの生活にとって小さなことでもないと思います。

ロシアでもなく、中国でもなく、アメリカなのです。これは日本にとっても大きいことです。

もっとはっきりいえば、この状態はアメリカ人にとっても日本人にとっても神の恵みだとさえ私は思います。

第二次大戦では散々に日本を痛めつけましたが、それでも戦後70年は一貫して日本の国土を安保条約のもと防衛してくれていました。

ありていにいえばアメリカ人が(911を除いては)その国土を大規模に攻撃・侵略されていないのは神がアメリカに巨大な軍事力を持つことを許可したからだし、日本が70年間平和だったのも、また同じ理由からなのです。

これらの事実を省みることなく、「平和をつくる・・・」聖句を振りかざして政治家や軍人を罪定めする人たちには、ただ驚き呆れるばかりです。

自分たちが享受している平和、人権、自由を守っているのは、ほかならぬ自分たちが罪定めしている「軍人」「軍事力」であり、それは神が国家に保有を許したものであって、それが現実の世界なのだということがどうしてわからないのでしょうか。

思いあがってはいけない

「平和を作る者はさいわいです」この聖句を見て、条件反射的に(日本人なら)「すわ安保法反対」「外交で解決」(アメリカ人なら)「トランプ反対」と叫びたくなる人は、自分を省みたほうがよいでしょう。

自分には決してできないことを、できるかのように思う万能感や高揚感に浸っている可能性はありませんか?

あなたは、北朝鮮との平和をつくること、できますか?

私にはできませんし、あなたにも、きっと出来ません。賭けてもいいですが、絶対できません。絶対。マジ無理です。

しかし、神が、世界随一の巨大な軍事力を与えたアメリカという国の指導者なら、できる・・・・かも知れません。

保証はありませんが、確実性というなら、平和追求のあまり政府職員に暴力をふるってしまった牧師さんより、よほど確かです。

人間、自分に出来ないことは、神に委ねるしかありません。

そして、現在のようなときには、神が力を付与した権力者たちが、どうか正しい判断を下せるように、と祈り続けることです。

その点、私はCorey師より、トランプ支持派の田舎牧師たちのほうがよほど人間的で信頼できると思います。

(誤解のないように言っておきますが、私はイエスキリストこそが平和の源だということを否定するわけではありません。しかし魂の平和(シャローム)とこの世レベルでの平和は違います。キリストは魂の平和(シャローム)をもたらしますが、だからといってそれを得たらすぐこの世から出て行ったり、世捨て人になればいいというわけではなく、農夫が作物を守り、羊飼いが羊を守るのと同様、国家指導者は社会の安寧を守るという神から与えられた責務を果たすべきです。(ローマ書13)そして、魂の平和(シャローム)と物理的平和両方が地上に横溢するのは、イエスの再臨後以外にはありえないと確信しています。)

聖書を引いて「平和運動」をするのってどうなの?

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聖書を引いて「平和運動」をするのってどうなの?

その聖句引用がおかしい

「ちょっと国内事情」のカテゴリを作ったので、日本国内で聖書を引いて「平和運動」をするキリスト者さんたちのことをいろいろと考えることが増えました。

「安保法制反対」「集団自衛権反対」「憲法9条を守れ」「戦争のできる国にしない」「秘密保護反対」「共謀罪反対」・・・・

別に、どんな政治的主張をしようが自由なのですが、でもいつも引っかかるのは、その際の聖句の引用がおかしいのです。

たとえば、よく引用される聖句には、以下のようなものがあります。

・・・彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。(イザ2:4)

聖句の誤用はたいてい文脈を無視して引用することから始まりますが、これはその典型例でしょう。(ICUといった有名大学の先生がたまでこういう引用を平気でしているのだから驚きです。)

先行する1節に「終りの日に次のことが起る。」とあるので、これは預言であって命令ではありません。キリスト者が自国の政府を説得してそのような状態を作り出すと書いてあるわけでもないし、また「国は国に向かって・・」とあるのですから、日本1国だけ武力を放棄してどうにかなる問題でもありません。

平和を作る者は幸いです。(マタ5:9)

これも同様です。そもそも文脈以前の問題としてのっけから出てくる疑問は、彼らの「平和運動」によって実際に「平和が作られた」ことがかつて一度でもあっただろうか、ということです。

むしろ、日本の戦後70年の平和は、アメリカの強大な軍事力による保護下にあったからというのが現実であって、それ以上でも以下でもありません。

そして日本で展開されている数々の反戦平和運動にもかかわらず、ロシアの戦闘機は北海道に飛んできますし、北朝鮮のミサイルは日本近海に落下してきますし、中国の船舶は尖閣諸島に押し寄せてきます。

真剣に考えてほしいのですが、彼らがやっている「平和運動」によって、こういった事象が収まったことがあったでしょうか?

いや、もし本当に「平和運動」というなら、日本政府の対応を批判するにとどまらず、ロシアに行って「戦闘機を飛ばすな!」と、北朝鮮に行って「ミサイルを飛ばすな!」と、そして中国に行って「尖閣諸島に船を送るな!」と主張しなければ、筋が通りません。

(行くの怖い、というなら、せめて大使館前で抗議するとか集団で手紙を送るとか、やり方があるはずです。)

そうでなければ自国政権だけを一方的に黙らせようとする単なるイジメにしか見えません。

平和を作る者は幸いといわれていても、「平和を作ろうとしてデモや反対運動で一方的な政権批判を繰り返しジタバタしている者は、たとえそれで全く実績を出せていなかったとしても幸いである」とは言われていないはずです。

結局、こういった聖句に基づくメッセージの内容も、伝える相手も何もかも間違っているうえに、「平和!平和!」と叫ぶことだけが自己目的化して運動家さんたちの内部でメッセージがぐるぐる循環しながら強化されていっているだけとさえ見受けられるのです。

しかし、これまたよく引用される以下の聖句については、少々考慮が必要かも知れません。

敵を愛し、迫害する者のために祈れ。

具体的には、マタ5:38-48の以下の箇所で、「平和運動」をする人たちはもちろん、プログレッシブ・キリスト教(キリスト教進歩主義)も好んで引用する箇所です。

5:38-42『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。

5:43-48『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

この聖句の解釈は、おそらく政治的保守のキリスト者と左派のキリスト者たち(そして類似の信条を持つプログレッシブ(進歩主義)のキリスト者)との間で一番押し問答になりやすい難しい箇所でしょう。また、非戦・反戦のキリスト者運動家さんたちに使われるだけでなく、時として伝統的な聖書解釈を重んじる福音主義の人たちの間でも、この聖句を引いて「キリスト者は軍隊に入隊してはいけない」といった主張がなされることがあります。

それで、この箇所についてつらつらと思いめぐらせていたら気づいたことがあります。

敵とは何か・迫害する者とは何か

旧約聖書に根ざした古代イスラエル社会は、民族・宗教・政治という三つの要素が極めて堅く融合した共同体でした。

彼らは民族面においてはアブラハム-イサク-ヤコブの子孫たちであって、宗教面においては、その血筋ゆえにヤハウェの契約を受け継ぐものたちであって、また政治面においては、そのヤハウェの教えを一心に守ることにより国が栄えると約束されていたのです。(申命記28章等。)

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そして実際、律法が与えられた後紆余曲折を経つつもダビデ王によって安定した政治体である国家が確立しました。

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しかし後に、バビロン捕囚によってその政治的自立は失われました。その後マカベア戦争により一旦はそれを取り戻すも、1世紀においてはローマの支配に甘んじることになります。

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イエスの来臨時、そのユダヤ人たちは、民族・宗教の同一性は保っていたものの、欠落していた政治的自律性の回復を渇望し、それをもたらしてくれる「ダビデの子」を待ち望んでいたわけです。

この、民族・宗教・政治の3点セットの結びつきの強さは、政教分離の世俗社会に生きるわれわれ現代日本人には想像もつかないほど強いものであったことを思い起こす必要があります。

これは新約聖書の登場人物からしてさえもそうです。弟子たちはイエスの十字架・復活後に至ってもなおイスラエルの再興の可能性を口にしていました。(使徒1:6)

政治面だけでなく、民族と宗教の同一性もまた同様です。使徒の働き11章の中で、割礼もユダヤ教への改宗もしていない異邦人へ救いが与えられたことがまるで大事件かのように語られています。われわれ異邦人キリスト者にしてみたら何がそんなに驚きなのかピンときませんが、実際に、その当時のユダヤ人には驚天動地だったわけです。

つまりこの当時のユダヤ人たちにしてみれば、自分たちはヤコブの子孫たる選民でヤハウェ契約の保持者、当然ながら来るべきメシア王国の継承者で、

かたや、その「敵」は誰かといえば(ヤハウェを敬う少数の異邦人たちを除いて)、周囲にひしめく異民族・異教徒たち、つまり出エジプトから思い返せばアマレク人、ペリシテ人、モアブ人、アモン人、ユダ・イスラエル王国後期でいえばアッシリア人等々、そして1世紀にはローマ人に至り、

表面上は戦争状態にはない場合であったとしても、彼らにとっては、こういった敵味方の線引きの概念はこのうえもなくはっきりしていたことは想像にかたくありません。

そして、イエスの弟子たちにとってさらに物事を複雑にした事情があります。

当時ローマ帝国においては、religio licitaと、 religio illicitaというものが定められていました。

ユダヤ教は、ローマによってreligio licita、公認の宗教のひとつとして認められていたのです。これは、新約聖書においてピラトやその他の総督たちがユダヤ人にそれなりの配慮をしており、宗教の自由の行使を認めていたことからもうかがわれます。

そして、イエスの弟子たちが当初たんにユダヤ教の一派と認められているうちはよかったのですが、やがて彼らはユダヤ教から排除されることで、 religio illicita(非公認の宗教)となってしまいました。

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この説教が語られた時点では、まだそこまでの展開を弟子たちは認識していなかったのでしょうが、イエスはそれを予見しておられたことでしょう。

こういった背景を見ていくと、この説教を聴いている者たちを取り巻く力学が、われわれが考えるよりはるかに複雑なものであったことに注意を向けさせられます。

ローマ帝国という政治体に包括され、ある程度の自治を認められつつも、政治的自立への渇望ゆえにこれを敵視していたユダヤ人社会と、そのユダヤ人社会の中で生まれながら、やがては排斥され(公認宗教の立場を失いローマからも迫害され)る運命にあったイエスの弟子たち。

イエスは、この弟子たちが抱える、ユダヤ人社会の一員としてアイデンティティ、そしてキリスト者としてのアイデンティティ双方に訴えかけるものとしてこれらの言葉を語っていたわけです。

ユダヤ人としてのアイデンティティに対しては、ダビデの家を取り戻したいからといってその政治的自律を脅かすローマに力で対抗してはならない、というメッセージ。

そしてキリスト者というアイデンティティに対しては、宗教を理由としたユダヤ人からの、そして後にはローマからの迫害に対して力で対抗してはならない、というメッセージ。

(「天の父が完全なように、完全でありなさい。」の解釈については、→こちらをご参照。

このメッセージは、ユダヤ人の保持してきた民族・宗教・政治の3点セットから政治力(を裏打ちする軍事力)を無理やり引き抜いてしまうものであって、当時としては驚きの内容であったに相違ありません。

だからこそ、もともとそのような3点セットを持たない現代世俗社会のキリスト者、つまり、同じ民族であっても様々な宗教の信者が共存してそれぞれに宗教の実践が保証されている社会、人権の平等が保証されている社会に住むキリスト者に対して、このメッセージを逐語的にあてはめようと思っても、ちぐはぐになってしまうのは必定なのです。

現代の日本社会では、「右の頬を打つような者」については、被害者が何民族であろうとどの宗教を信じていようと暴行罪が成立しますし、「一ミリオン行けと強いる」のも同様に強要罪になり、原理としてはただ警察に届け出れば被害者は救済される仕組みになっています。

だから当時のユダヤ人が抱えていた不満やイエスの弟子たちが直面していた事態への対応を日本社会のキリスト者に対し逐語的に適用してもあまり意味がないわけです。

(→ひるがえって、イスラム多数派の国においては「右の頬を打つような者」が多数おり、迫害という点ではキリスト者たちの状況は初代弟子たちと大差ないといえる地域がたくさんあります。)

もちろん、筆者は、これらの聖句を政治領域に適用するのは間違っていると主張したいのであって、信者個人が生活上の理念としてこれらの聖句を奉じることには大いに賛成です。(私も、罵られて罵り返すことのないよう気をつけなければ・・・。(汗))

非キリスト者指導者に対して独自の聖書解釈に基づく政策を押し付けるのってどうなのか
 
これらを背景に、日本の現代世俗社会におけるキリスト者という集団を取り巻く様相についてもっと考えてみましょう。

日本のキリスト者は、日本民族という集団とその代表者たちにより構成される日本国という非宗教的政治主体に包括され、その法律によって与えられた権利のもと、私的領域で宗教を実践する者たちの集まりです。

もっと具体的に言えば、現在の日本国は自民党政権という政治指導者たち(ほぼ非キリスト者)のもと、99%が非キリスト者から構成される社会の内部に、他のいろいろな宗教集団と並存してキリスト者の少数者集団がぽつんと存在している状態です。

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そして、山上の説教で想定されていたような「敵」も「迫害する者」も、文字通りの存在としては、ありません。(戦時中はいましたが今はいません。)

それでは、めぼしい「敵」がいないので、平和運動に邁進する左派牧師さん・大学教授さんたちのように、「敵」を国外にいる敵対的な国家やテロ組織などの勢力と仮定します。

本来、山上の説教の背景からすると、既にアウグストゥス帝がパクス・ロマーナを実現した後で、ローマ帝国の外に想定すべき「敵」はなかったのであるから、そういった存在は説教の中では想定されていなかったことがわかり、従ってこういった「敵」の定義は行きすぎに思えます。

しかし、議論の都合上、あえてそう仮定することにします。

しかし、その場合であっても、彼らが安倍首相以下政権担当者たちに対し「敵を愛せ!」と、強要することはきわめて理不尽です。

なぜなら、安倍総理はじめ閣僚たちは非キリスト者なのだから、彼らにキリスト者の戒めを強制することは最初から無理があるからです。

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それでもそうしろと強制しようとするならば、それはまるでイスラム原理主義者が異教徒に対してイスラム法の遵守を強要するのと同じに見えます。

第一こういった言説は、どの相手に対しても愛を示していることにも全くなりません。もし、本当に「敵を愛する」を実践したいならば、彼ら自らが、たとえば、中国や北朝鮮に対し直接愛を示すべきです。アカの他人に「敵を愛せ!」と強要する行為は、実際には誰を愛しているとも言えません。

何よりも、イエスや初代使徒たちは、自分たちを統治支配するローマ兵士や将校たちのところにいって、「今後、ローマに反乱する者があっても決して鎮圧してはなりません。あなたは敵を愛さなければならないからです」などと要求してはいないのです。

・・・つまり、日本の左派牧師さん・キリスト教系大学教授さんたちのいう平和運動とは、これくらいに不条理なことなのです。

いや、べつに平和運動をやってもいいのです。しかし、客観的根拠に基づいた議論や政策提案ならともかく、聖書という宗教書の解釈の一種類にすぎない信条をテコにしてこんなことをやるのは福音書のもともとの意図(ヨハ20:31)とはとてもかけ離れていて不条理だと私は考えています。

もし日本の首相がキリスト者ならどうなのか?

それでは、安倍総理の後の自民党総裁候補者として有力とされる石破氏が首相になったらどうなのでしょうか。

石破氏はキリスト者といわれています。そこで、左派牧師さんたちや大学教授さんたちが、石破氏に対して「あなたはキリスト者でしょう。イエスに従うというなら敵を愛しなさい」とプレッシャーをかけることは妥当なことになりうるでしょうか。

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(もしCorey博士やBoyd博士が日本国民だったなら、ここぞとばかり「キリスト者は非暴力であり、それ以外の対応は絶対認められません」と、ウムを言わせず畳み掛けるでしょう。(苦笑))

いいえ、残念ながらそれも妥当とはいえないでしょう。

なぜなら、石破氏は自分を選出してくれた選挙民(99%非キリスト者)に対して代議士として責任を負うばかりでなく、また、もし総裁に選出されたならば99%非キリスト者である全国の自民党員に対して、さらにはその場合首相として99%非キリスト者である日本国民全体に対して責任を負うことになります。

「いや、キリスト者はどんな職業、どんな状況にあっても常にキリストの命令に従うのだ!」

まあ、落ち着いて聞いてください。

国民の大多数が「敵を愛する」ことを堅く信じていわけではない以上、もしキリスト者首相が「敵を愛す」戒めを(左派牧師さんたちが正しいと主張する形で)文字通り実践するとしたら、自らの職務責任を完全に放擲し、有権者、党員、そして国民の大多数が信じても理解もしていない原則を追い求めるあまり、人々への重大な裏切りを犯すことになります。

「だめだ、言い訳するな!キリスト者はどんな立場にあっても敵を愛さなければならない!」

だから、聞いてくださいって。

キリストの戒めは、教会、つまりは、教会指導者と教会員に適用されるもので、国家指導者と国家の構成員たる国民に適用されるものではありません。

どういうことかって?

説明します。たとえばもしもの話、ある国のキリスト教指導者が、教会がテロ攻撃や迫害に遭った際、「復讐してはならない」と呼びかけ、そして教会員たちもそれに従うとします。この場合、教会指導者も教会員たちも、キリスト者であるがゆえにキリストの戒めに『従って』います。(エジプトといった国ではよくあることです。実際、そう簡単ではないでしょう。本当に尊敬に値することです。)

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それでは、仮に、ある国でキリスト者が国家指導者となり、キリストの戒めを実行すべく「ミサイルを撃たれても、テロで人が死んでも対抗することはしません。聖書には敵を愛せと書いてあるからです」という方針をとるとします。

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この場合、キリスト者国家指導者のもと、国民はキリストの戒めに不本意ながら『従わされて』います。

何かおかしくないですか?

そう、非常におかしいです。

聖書を全体的に学んだ方ならご理解いただけると思いますが、新約聖書に基づくキリスト教は原理的に「自由意思」の宗教です。

キリスト者には割礼も関係ありませんし血筋も関係ありません。親が何を信じているかも関係なく、自らが考えて判断したときに、洗礼を受け、キリスト者となります。(そういう意味で幼児洗礼は非聖書的です。)

また、イスラム教と違い、棄教・脱会はいつでも自由ですし(そもそも初代弟子であるペテロからして、3度主を否定している。のちに立ち直ったけど・・・)、また棄教まではいかなくても、もし迫害されるのが嫌なら、他の地域に逃げる、教会に行くのはやめて自宅での秘密礼拝にする、当面は信仰を隠す、など、いろいろな選択肢があります。

しかし、もしも国家指導者が、「敵を愛せ」を実際に政策として取り入れ、その結果ミサイル着弾、テロによる死者、領土の喪失、外国による侵略等の事態が起こったら、どうなのでしょうか。

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これでは、もともとキリストの戒めに従う覚悟もいわれも何もない非キリスト者国民に、キリストの戒めに強いて従わせ、その従ったがゆえの帰結を負わせることになります。

この図をよくよく見て考えてください。これは、ヘタなカルト教会より悪質な行為ではないでしょうか?

いや、たとえ教会であっても、「おいお前、殉教しろ」と、他の信者に強制することはできないでしょう。聖書に記録された殉教は覚悟と備えのある器が主の導きによってするものです。自分が誰か他人に強制するのは違うと筆者は思っています。

だから、日本の平和運動牧師さんや大学教授さんたちが典型的にあこがれる平和国家の形は、よく考えると実は非常にいびつなのです。

民主主義の手続きを無視して少数派が宗教を理由に多数派を専制支配し不本意な犠牲を強いる、ほとんど『カルト国家』と言っていいようなものなのではないでしょうか。

だから、もしこういった人たちが、自分たちの国家指導者に「キリストのように」振舞ってほしい、そしてそんな指導者にこの国を「平和国家」にしてほしい、と思うなら、まず自分たちで候補者を立てるべきです。

そして、「キリストの戒めなので、私は一切武力を背景とした手段を放棄し、ミサイルで撃たれてもテロで人が死んでもひたすら敵を愛します」という選挙公約を掲げ、それで全国の選挙区を勝ち抜き、最終的に与党第一党となって国会で過半数議席を獲得し、党代表を選出して首相の座に据えればいいのです。

しかし、そこに至るまでは、いたずらに「平和を作る者が」を連呼するのでなく、非キリスト者の有権者たちに対してもアピールする説得的な議論を展開し、票を得ることを心がけなくてはなりません。

さらには、国会で野党から激しい論戦を挑まれるのは必至ですから、その中で、自らの掲げる不戦・非武装・無抵抗といった政策が危険を上回る実際的なメリットを確実にもたらすということを、かかる指導者は証拠とともにきちんと説明する義務も負っているといえるでしょう。

そういったプロセスを通るのであれば、(それでも国民の中のかなりの数が不満を持つでしょうが・・・)いちおう筋が通っており、理論上はの国家による「敵を愛す」の実践が可能です。

しかし、そこまで考えず、ただただ平和と唱え続ければ実現するかのように考えておられるとしたら、失礼ながら少し現実から遊離しているように思われるのです。

聖書は多数国民の政治意思を無視して「敵を愛する」カルト国家を想定しているのだろうか

聖書を引いて「平和運動」をするのってどうなの?と題し、日本の平和運動牧師さんや大学教授さんに対し辛口の批判をさせてもらいましたが、これはキリスト者の割合が多いアメリカについても言えると思います。

Benjamin Corey 博士をはじめラディカルなプログレッシブ(キリスト教進歩主義)の方々は、ことあるごとに上記の聖書箇所(とくに山上の説教)を元にしてトランプ氏を非難しますが、そもそもトランプ氏は平和主義を掲げて当選したのではないのですから、逆にCorey師のいうような政策を採用したら選挙民への裏切りとなります。

そんなことが起こったら、国民を騙してキリストの戒めに『従わせる』ことになります。それでいいのでしょうか。

聖書は「隣人を愛せ」といいます。

政治観が違うとはいえ、トランプ支持者もやはり彼らプログレッシブ指導者たちの「隣人」であることは事実です。なのに、「敵を愛する」あまり、彼ら隣人の政治意思を押しのけ、無理に国ぐるみでキリストの戒めに「従わせる」などという発想は、目的が手段を正当化してしまっている状態だと言え、褒められたものではないでしょう。

もしも自国が国家単位でキリストの戒めに従うべきだというなら、その前に民主主義のプロセスをきちんと踏むべきです。

つまり正々堂々と平和主義を掲げて選挙戦を戦い、無闇に相手をヘイト呼ばわりすることなく平穏に説得に努めながら票を獲得し、政権をとった暁にそれを実践すればいいのです。

キリストの戒めはいやいやながらではなく自ら進んで行うものです。

教会では、例えば何か善行を呼びかける際でさえも、信徒にはあえて参加しないという選択肢がありますし、嫌なら教会から離れる(転会する)ということもできます。

しかし、国家が国家防衛や治安対策といった重大な政治政策を選択するとき、その帰結から免れるには国民は「国から逃げ出す」という選択肢しかありません。正当な手続きをとらずそのような重大な決定をするとしたら、それは専制であって、むしろファシズムに近いものがあります。

したがって、聖書の戒めは、『自由意志で集う教会という集団』にのみ限定して適用すべきものであって、正当な手続きを経ずして『国家』に適用すべきものではないのです。

この原則を認めない、Corey師などに代表される超過激プログレッシブ・キリスト教指導者さんたちの思想はカトリック教会が支配した中世ヨーロッパ社会並みに退行したものだと形容したら言い過ぎでしょうか・・・?

プログレッシブ・キリスト教神学に応答する(2)なぜプログレッシブ運動は反対者を罪定めするのか

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プログレッシブ・キリスト教の水面下での浸透:欧米から日本へ (22)

プログレッシブ・キリスト教神学に応答する(2)

なぜプログレッシブ運動は反対者を罪定めするのか

「キリスト教進歩主義」と題するfacebookグループに投稿されていたある画像をご紹介します。

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=10155566715536639&set=gm.1737770266515838&type=3&theater

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「私は、女が教え・・・ることを許しません。(1テモ2:12)」「女が・・・・・子を産むことによって救われます(同2:15)」といった聖書箇所の引用をバックに手を縛られた女性の画像とともに、

「これは女性差別を取り上げていますが、これは同性愛者への差別にも当てはまります。聖書を暴力の道具としてクリスチャンは長年使ってきたことを悔い改めないといけないでしょう。」

というコメントが添えられています。

この画像とコメントを見ていて、なんともいえない違和感が湧き上がってきて、しばらく言葉に出来ずにいたのですが、突然ハタと思い当たりました。

日本のキリスト教界と、西洋のキリスト教界は、全く違う歴史を辿ってきています。

なるほど、西洋では、カトリックあるいはプロテスタントがながらく「国教」であったがゆえに、教会による恣意的な聖書解釈が社会規範として影響力を保っており、宗教空間と世俗社会の分離が成るまでの間は「女性は教えてはならない」「妻は夫に従いなさい」といった聖句が女性抑圧に使われることがあったのは想像にかたくないでしょう。

しかし、日本ではキリスト者そのものが圧倒的少数者であったのであり、社会的認知を得たのがそもそも明治時代に入ってからです。

無論、キリスト者が宗教を理由とした組織的・性差別的暴力行為に従事した例などほとんど聞きません。日本のキリスト者が、女性に向けた暴力のために長年聖句を誤用していたというのは、よくて「不正確」悪くて「濡れ衣」です。

そもそも西洋と違い教会が社会を支配していたわけでもなければ、そこを抜けるのもいつでも自由だったわけなのですから、こんな画像をもって(日本の)キリスト者をまるごと告発しようとするのはどうなのでしょうか。

さらには、同性愛差別についても同様です。(米国でいえば)反ソドミー法により同性愛行為そのものが規制対象であった西洋と違い、日本では平安時代から同性愛がなんら問題視されず実践されてきたのであり、これを禁忌とする風土自体希薄であったといえるでしょう。実際、明治年間に西洋のマネをして反同性愛法を導入したものの10年ほどでやめてしまいましたし、三島由紀夫といった著名人が同性愛者であったことも公然と知られています。

それについて日本の教会はどう対応したでしょうか。アメリカにはウェストボロバプテスト教会という、過激アンチ・ゲイ運動の急先鋒といえるトンデモ教会があり、同性愛者の葬儀に集結して罵声を浴びせるなど意味不明の活動に従事していましたが、日本にはそのようなものもありません。

同性愛に寛容な文化に眉をひそめるキリスト者はいたかもしれませんが、聖書を誤用した暴力的な行動をもってこれを制しようとする者がいたなどということは寡聞にして知りません。(無論、教会の中でメンバーに「同性愛禁止」を言い渡す例はあったのでしょうが、結局は私的集団に過ぎないのだから、イヤなら唯単に抜ければよい話であって、強制的にメンバーシップを保持させたうえで同性愛をやめさせようとする例が日本の教会であったのかは、はなはだ疑問ですし、かりに一部にあったとしても、すべての教会がそうであったと根拠なく決め付けることはできません。)

だから、そういった経緯を念頭に上記の投稿を見た場合には、「?」という疑問符しか湧いてこないのです。

むしろ、具体的事例を挙げることなく漠然とした語法をもって、西洋とは来歴の異なる日本人キリスト者を高所から一方的に罪定めし、罪悪感をかきたてようとする手法には強い違和感を感じてしまいます。

日本にプログレッシブ思想をあてはめることの違和感

また、このグループの別の投稿にはこうあります。

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https://www.facebook.com/christocentral/posts/1504475229619810

「人間社会は、弱い者、変わった人、皆と歩調を合わせない人達を犠牲にして自分たちの「平和」を保ちます。しかしイエスはそのような社会的・組織的な罪と偽善に対して「NO!」を突き付けます。私たちの今の社会でも、そのような組織的な罪が周りにはびこっています。クリスチャンがそれに加担してしまうこともあります。それに「NO!」を突き付け、虐げられている者たちを救い出すのがキリスト者の使命です。」

「今の社会でも、そのような組織的な罪が周りにはびこっています。」

イエスが対峙し告発した社会的・組織的な罪とは、ローマ帝国支配下のユダヤ人の領域におけるものであって、イエスご自身は、そのユダヤ人社会を包括する異邦人の政治システムには何らの関心も示されませんでした。

イエスはパリサイ人とサドカイ人による、聖書とは似て異なる口伝による宗教法と権威を用いた支配と搾取を、激しい語調で非難されました。その対立により、彼らはイエスをメシアと認めるどころか悪霊の力を借りていると決め付け、そしてその人気を妬んで無実の罪で死刑に処したのです。

現在日本では、宗教的権威と社会制度は完全に分離しています。イエスを救い主と認め告白しても何の迫害も受けませんし、また宣教活動も制限なく認められています。

もちろん、姦淫を犯した女が処刑されることもありません。神殿に控える両替商たちによって礼拝者が法外なレートで犠牲の動物を買わせられることも無論ありません。(これに怒ったイエスはこれら商人たちを宮から追い出しました。)

もちろん、個人個人のレベルでの罪は別です。兄弟にむかってばかもの、と言う、女を欲情をもって眺める、そういった罪は確実に存在しますし、そもそもの前提として、ローマ書1章でパウロが論じるところの「被造物を通して創造主を知っていながらこれをあがめもせず感謝もしないという罪」があります。

しかし、個人個人のものは別として、新約の聖典に記録された範囲における「イエスが対峙した『社会的』・『組織的』罪」が具体的に日本社会の特徴のどこにあるのかについては、説得的な議論を展開するには相当の豊富な具体例と検証が必要のように思いますが、そのようなものを見たことはありません。

そもそもイエスは異邦人の社会システムには(カエサルに税を納めることや軍隊の駐留も含め)ほとんど関心を払っておられませんでした。

イエスが衝突したのはあくまでラビ的ユダヤ教の宗教指導者たち。その矛先は世俗社会ではなくあくまで宗教領域。(神殿では「暴れた」けど、ローマ兵には「抵抗」しなかった。むしろ、「抑圧者」であるローマ軍と戦え、と命じるどころ、その命じる労役も進んで引き受けてやりなさい、とまで言ったのです?沖縄での抗議行動で逮捕された某牧師センセに聞かせてあげたい・・・)

それで、イエスが異邦人について命じたのは「すべての国民を弟子とし(これには日本人も含まれます)」「バプテスマを授け」「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教え」よ、であり社会的・組織的罪と戦う、といったことではありません。

また、上述したように日本においては同性愛は昔から社会的忌避事項ではありませんでした。現在でもテレビでは歌手の三輪明宏さん(ケイトリン・ジェンナーといった人物が脚光を浴びる何十年も前から活動されています)、オスギさん・ピーコさん、IKKOさんといったタレントさんたち、あるいは、はるな愛さんといったニューハーフさんたちが画面を賑わし、それに抗議するキリスト者団体もありません。

だから、西洋からプログレッシブ思想を輸入するかたちで、日本社会を伝統的に「罪」を犯してきたものとして「断罪」しようとしても、多くの人々は困惑しか感じないのではないでしょうか。

革命戦術としての「罪定め」

しかし、筆者はこれらの投稿を拝見していて気づきました。

これは宗教の外面を装っていますが、そのじつ「革命運動」がひとをオルグするときに典型的な戦術なのですよね。

筆者は若いころ「サヨク」をちょっとやっていたことがありますから「臭い」でわかるのです。(だから、今は政治的には保守だけど、サヨクの人たちを心底から嫌いになることができないんですよね~(苦笑))

古くは共産主義から始まり、フェミニズムからLGBTロビーに至るまで、「社会を変革する」ことを目指す運動はたくさんありますが、そのすべてに共通するパターンがあるのです。

まずは「現在の社会システムによって抑圧されている集団」を特定します。

これは、女性一般、同性愛者、トランスジェンダーは勿論、いわゆる貧困層を含む「弱者」全般とか、あるいは日本に限定された例ですと「沖縄の住民」といった場合もあります。

そして、この社会運動への賛同を求める場合に「これらの人々が社会システムによって抑圧されている」→「あなたもその抑圧に加担してしまっている場合がある」として、聞く人の罪悪感を掻き立てます。

そして「われわれはこれらの人々を解放するために立ち上がる義務がある」「一緒に立ち上がり、社会を変革しよう!」と説得する(「アジる」)のです。

それに対し「興味がない」「関心がない」などの理由で断られたり、あるいは「君の言う抑圧など存在していない」といった反論をされたりすると「キミは勉強不足だ!」「意識が低すぎる!」などとして、マウンティングよろしく、自分の優位と相手の劣位を固めようとします。

それでも相手が「いくらかわいそうだからといって、それらの人々を特別扱いするのは問題がある」などと論じて譲らず、最終的に説得できそうにないと悟ると、「差別主義!」「ヘイト!」「レイシスト!」と痛罵して立ち去ります。(昔はこれが「ブルジョアのイヌ!」「権力の手先!」だったわけですな~。あ~あ、こんなのどかな時代に戻りたいな・・・・)

そして、近年、このやり方がもっとも如実に現れるのが「女性差別撤廃」や「LGBT」なのです。

「女性差別」にしても「LGBT」にしても、運動を支持する人たちと、興味・関心の無い人たちとの溝はとても広いものがあります。

女性たちの間でさえ「女性差別?まあ、あるかも知れないけど騒ぐほどのことじゃないわよ」という人たちも大勢います。

LGBT運動に至っては、「そもそも同性婚など必要ない」という声がゲイ当事者さんの間からも聞かれます(「ジャックの談話室」様を参考とさせていただきました)し、何よりも同性婚やトランスジェンダー者による性自認に合わせたトイレの使用を認めたところで、LGBT(ロビー)当事者以外には何ひとつメリットがない、それどころか所謂「シスヘテロ」である多数派にはデメリットすら予想されるからです。

本来なら、およそどんな政治問題でも、自らと立場の異なる相手を議論を通じて説得しようとする場合には、革新vs保守の双方陣営、「どういうメリットがあるか」を中心に議論するものです。

たとえば、原発問題でいえば「原発は安全性が証明されていない以上慎重を期して停止を続けるべきだ」vs「いや、日本は石油資源がないし原発を稼動しなければ電気代が高騰する」などなどです。

だから、相手を説得しようとするときには、「自らの持論に従えば社会全体に安全あるいは経済繁栄などの利点がある」ということを述べ立てるわけです。

しかし、プログレッシブ・アジェンダの筆頭といえるいわゆる女性差別撤廃やLGBT運動の場合はどうでしょう?

「日本は遅れている。女性管理職や経営陣の数が少なすぎる!」vs「無理に増やしたって売上も利益も上がらんしょ?(それにそんなん言うなら道路舗装工とか解体工も男女同数にしなきゃおかしくね?)」
「先進国は皆同性婚を採用している!」vs「日本がそれをマネして何のメリットがあんの?」
「多様性のある社会は強い!」vs「えっ?アメリカとか社会そのものが崩壊しかかってるっしょ?それより日本のほうがましだと思うけど?」

お気づきでしょうか。どんなに話し合いを続けても、アジェンダを推進する理由があまりにも茫漠としており、社会全体にもたらされる具体的「メリット」や当事者以外に対する「インセンティブ」をめぐる議論にならないのです。

なのでそれでも強いて反対すると議論は最終的に

「『弱者』に同情しないなんて、ヒドイ!」

となります。

それでも相手が動かない場合は、

「『弱者』に同情しないお前は『ヘイター(憎悪する者)』」
「『弱者』に同情しないお前は『差別主義者』」
「『弱者』に同情しないお前は・・・・・」

まず『弱者』を規定し、それに対する同情を強制し、同情しない場合はラベルを貼り付けてバッシングする。

(サヨク運動をかじったことのある筆者からすると、その構造というのは昔から
全ッ然変わってません。洗練され、効率性の面でアップグレードはしていますが、本質は全く同じに見えます。(笑))

ともあれ、筆者は、ラディフェミやLGBTロビーはあまりにも攻撃的過ぎて苦手ですが、一般サヨクの人たちは決して嫌いではありません。

人がどういう政治運動をしようが、好きにやればいいと思っています。

(あえていうなら、分別ある大人相手ならともかく、子供相手にはそういうことを吹き込まないでほしい。)

しかし、聖書をタテにそういった運動をするのはいかがなものか、と思えてならないのです。

政治思想と宗教の境界線

第一コリントにこんな節があります。

第一コリント5:9
私は前にあなたがたに送った手紙で、不品行な者たちと交際しないようにと書きました。 それは、世の中の不品行な者、貪欲な者、略奪する者、偶像を礼拝する者と全然交際しないようにという意味ではありません。もしそうだとしたら、この世界から出て行かなければならないでしょう。私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。

「外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。」

筆者は、キリスト教をテコに平和運動を推進する日本の左派牧師さんたちにつねづね違和感を覚えていましたが、この一節ゆえに、「聖書をタテにして社会変革運動をするのって全般的にどうなの?」と思い始めたのです。

なぜか?

それは、日本社会の99%は非キリスト教徒だからです。

「フェミニズム」「LGBT」運動にしても、これらはまず社会の「悪」を既定し、それを「是正すべく」社会全体のありかたを変革することを目標としています。ようするに、運動目的が達成されることにより社会構成員すべてが影響を蒙るわけです。

聖書を根拠に、他の社会構成員である多数の非キリスト者(を福音教化する手間をとることなく)、彼らの生活領域に大きな影響を与える制度の制定なり変更なりを提唱する。

これってよくよく考えてみると、新約聖書のコンセプトにそぐわないような気がして強烈な違和感を感じます。

なんとなれば、そういった社会運動は、聖書を信じていない99%の人たちに対して、「(僕の解釈によれば)イエスはこれこれこう言っているのだから、「弱者」に同情しないキミは間違っている!我々の社会のこの点とこの点は是正しなければ!」という、ある種政治的な主張を押し付けることになるからです。

また、ヘタクソな「ポンチ絵」(笑)で説明します。

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しかし、冷静に考えれば、これってただでさえ非常に不毛なことなのに、キリスト教をダシに使っているぶん、余計不毛だと思います。

極端な例でいえば、石原慎太郎元東京都知事のようなひとに、「イエスは愛せよといっている!あなたは同性愛者を差別してはならない!」と言っても、何の色よい返事も得られないことは明白でしょう。

まあ本人に実際に聞いてみたわけではありませんが、おそらく、自分は「イエスの戒め」に従わなければならないとも感じないでしょうし、自分は同性愛者をリスペクトしなければならないとも全く思わないでしょう。

(そして「あいつは差別主義者だ!」「老害!」と憎しみをほとばしらせたところで、何の解決にもなりません。そのような人々もまた、この社会の構成員であるという事実は1ミリも動かないからです。)

なによりも、キリスト者が、キリストを信じていない人に対して宗教に基づく行動規範を遵守することを要求するのは、まるでイスラム原理主義者が異教徒に「シャーリア法」の遵守を求めるのと同じように見えてしまい、強い違和感が残るのです。

プログレッシブ革命運動が振るう武器「同情の強制」と「属性の貼り付けによる罵倒」は、キリスト者相手にはよく効く?

しかし、視点を逆に考えると、プログレッシブ的「オルグ」と「アジテーション」は、キリスト教界の内部だからこそよく効くということも言えるのです。

そもそも、人をしてプログレッシブ運動に参加させようとしたり、あるいは参加しないまでも賛同するとか、最低限でも「反対しない」ようにさせるのに、プログレッシブ運動家が発動する手段とは何でしょうか。

「『弱者』に同情しないなんて、ヒドイ!」

上記で述べたように、たったこれだけ。煎じ詰めれば、たったこれだけが、人をしてこれらの運動に引き込む力の本質部分なのです。

そして、キリスト者はこの攻撃に対して、他の人々にはないほどの脆弱性を持っているのです。

なぜなら、キリスト者は「隣人を愛しなさい」と命じられています。

実はなかなかこれは難しいものです。家族、近隣住民、通勤途中、職場関係、生活の中の各場面どれをとっても、他人にいらいらさせられ、怒りたくなる時がたくさんあります。その度に、「ああ、僕は全然イエスのようではないなあ」とため息をつく。これが、偽らざるキリスト者の生活でしょう。この戒めひとつとっても、決して完全には達成できない、一生追い求める努力目標のようなものです。

そんなとき、

「あなたは社会的『弱者』を十分愛していると言えますか?」

と問いかけられたら、どうでしょう。キリスト者なら誰でも一瞬「ドキッ」とするのではないでしょうか。

「社会システムの中で抑圧されこんなに苦しんでいる『弱者』がいるのです。かわいそうだと思いませんか?」
「あなたはなぜこの『弱者』への抑圧を放置するのですか?傍観することも加害の罪になると思いませんか?そう、あなたもこの罪に加担してしまっているかも知れません。」
「我々の運動に加わりなさい。一緒に『弱者』を救うため立ち上がりましょう!」

そして、これらのくどき文句でも説得されても、ハッと我にかえって「いや、それって社会運動でしょう?聖書の命令じゃないし・・・」と思いなおして同意を見合わせる人には、

「あなたは差別と抑圧に満ちたこの社会システムを正当化するのですか?」
「あなたはキリストに従うといいながらなぜ『弱者』への『愛』を実践しないのですか?」

といった追い討ちが待っているでしょう。

はっきり言って、多くのキリスト者にはそうとうキツイ攻撃だと思います。真面目なキリスト者なら誰でも、悪者にはなりたくないし、愛がある人だと思われたいからです。

それだから、キリスト者の割合の多いアメリカといった国では、過去に同性愛者差別、人種差別が横行したという反省も加えて、こんなにもプログレッシブ運動が盛り上がったのだなあと筆者は勝手に推測しています。

とはいえ、
はっきり言ってこういうやりかたは「裏口」的であり、政治運動としてはけっして褒められたものではないと思います。

誰かを自らの政治的主張に同意せしめたいのなら、その具体的メリットを挙げて、正々堂々と政治的議論をもってすればいいのです。

ましてや、福音書は「・・・イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るため」に書かれた(ヨハネ20:31)ということがはっきりと証されているのに、それを革命手引書のごとく「赤本」のように扱うのは、どう考えても聖書的とは思えません。

しかし、筆者がこの運動に警戒感を持つ理由は、唯単に聖書的でないから、ということだけではありません。

社会革新運動は制御不能の怪物となる

昨秋のアメリカ大統領選挙以来、かの国における一連の騒動を観察していてつくづく感じたことがあります。

それは社会革新運動というものは、善意から始まったものであろうと制御不能なところがあり、いかなる理由でも反対を許さない、どこか怪物じみたものになる傾向があるということです。

より具体的にいうと、「反差別」の追及は、公共サービス領域における差別禁止にとどまるならともかく、私的領域への統制にまで拡張していってしまうと、極めて不合理な結果に行き着いてしまう危険があります。

たとえば、求人や昇進に際し、性別で差別しない、などですが、

現実的には、ある種の職業では、適性を持つ候補者の性別があきらかに男性に偏っていたりしますし(体力的に仕方が無い、とか)、すべての職業で男女の性差をなくすことなどどだいムリな話です。

それなのに、ある著名IT企業で、社員が「ダイバーシティが大事だからといってムリに男女半々にするのはいかがなものか」「女性エンジニアが少ないのは生物学的原因があるかもしれない」とメモを書いただけで、「多様性に反する!」と問題になります。この社員はのちにクビになってしまいました

当該社員が、偏見からそういう考えに至ったのか、それとも根拠があるのか、真相を検証しようとする手間を会社側がとることはありませんでした。

しかしもしも統計的に見て、女性がエンジニア職に応募する割合は男性より低く、またエンジニア職において、男性のほうが女性より平均的に高い結果を出しているなら(昔ちょっと現場を見たことがある筆者が想像するに、ひたすら何時間も画面を眺め、連日の終電帰りや徹夜を含めた根を詰めた作業、気まぐれなクライアントからの厳しい要求事項への対応・・・を考えると、どうも男性のほうが向いているような気がします。とくに、40歳を過ぎてからの女性の体力の衰えを無視すべきではないと思います)、エンジニアを男女半々とすることは、能力のある候補者の採用を妨げ、ひいてはチームの生産性を低下させることになります。

なのに、「多様性」は絶対的ドグマとなってしまっており、しまいには、企業の生産性といった数値化できるような中立的事項にも影響を与えかねない事態になっています。

また、「LGBT」についても同様。一部のLGBTロビーからは、「同性婚法制化」「異性婚の配偶者だけに特権を認めるのはおかしい」といったものから、「トランスジェンダー者に自分の自認する性別に対応するトイレを使わせろ」といったものまで様々な要求が打されています。

しかし、現行の法制度・社会制度自体が「異性愛カップルの女性が出産し男性がそれを守る」という社会存続のためには絶対に必要であることがあまりにも明白な家族形態を想定しているものなのですから、同性カップルに範囲を広げるのが妥当かはおおいに議論があるところでしょう。

しかし、現実には、アメリカでは「結婚は男女に限る」といった意見をうっかり漏らしただけで仕事を首になったりします

一方、「トイレ」問題は、女性たちに切実な問題を突きつけます。それは、「自分は女だと自認しているが生物学的に100%男性である人物が女子トイレやシャワールームに入ってくることを許容できるか?」というものです。これは決して無視できない問題だと思います

ところが、ムチャなことに、米国のオバマ前大統領は在職中、全米の学校がこれを受け入れなければならないと大統領令で決めてしまいました。(過去記事末尾追記参照

もっとめちゃくちゃなのが、トランスジェンダー者は軍隊には入隊させないとトランプ政権が発表したことで、猛烈な批判が起こったことです。

しかし、そもそも軍隊というのは機械のごとく無駄なく正確に命令を遂行し、戦闘での勝利を得ることが目的の組織です。そんな場所に、自らの性別の違和感で苦しんでいる人たち(ご本人たちの苦しみはかわいそうで同情しますが)を送り込むということ自体がムチャというものです。

持病を持っている人が軍隊から排除されるのは当たり前の話ではないでしょうか?

もし、ホルモン投与や手術により性別適合を済ませたのだから大丈夫だ、というならそれはそれで問題です。男性から女性に転換するMTFでは、ホルモン剤により筋力が低下することが知られていますが、それは、軍隊の大切な資産といえる兵士の体力を低下させる処置ですし、逆に女性から男性に転換するFTMが、いくら外見を整えても男性兵士と互角の体力を保持できるかは極めて疑問です。

しかし、「トランスジェンダーへの平等は、軍隊組織にも及ばなければならない」というのです。論理が破綻しています。

そもそも、トランスジェンダーに関していえば、性別違和を持つということについて、自分の望む性別を周囲が受入れたり、あるいは性別適合手術を受けることで解決するのかどうかは未だ議論の途上です。

これについて、Paul MacHughという学者は、「性転換した男性は女性になるわけではないし、性転換した女性は男性になるわけでもない」「そのような人たちは、女性化した男性あるいは男性化した女性になり、自分が『認識』する性の模倣あるいは扮装をしているのだ。」と主張しています

もちろん、このような主張はプログレッシブ側の不興を買うことは想像にかたくありませんが、性的自認というのがあくまで主観に基づくものであって科学的になんの裏づけもない以上、解決に向けては専門家を交えて議論を重ねていくしかないのが現状です。

しかし、リベラル・プログレッシブ社会運動の進行につれて、そのような議論さえも「オフェンシブだ」として封殺されていく傾向にあります。「差別!」と叫ぶだけで、ムリが通って道理が引っ込むのです。

何が言いたいかというと、こういうことです。

「マイノリティ」への同情につきうごかされ、なんとかしてあげたいと思うことは自体はいいことです。

もしも不当な女性差別・同性愛者差別を目にしたら、その被害者を慰めるとともに、もし相手方の行為に違法性があったら、警察への相談に付き添ってあげる、職場における関係ならばしかるべき公的組織への申入れを手伝う、できればそういったことをしてあげるべきでしょう。

しかし、民間人にできるのはここまでです。「抑圧者」を規定したうえで、その相手の属性をひとからげにして執拗に攻撃するのは(左翼運動としてはよくあることですが・・・)、キリスト者的にはどうかな?と筆者は思います。

刑法手続きが整備されている部分はともかく、それ以外のモラル違反行為については「裁きを下すのは神」という考えが根源にあるからです。

繰り返しになりますが、イエスは福音宣教以外には異邦人社会に影響を及ぼすような運動はなにひとつ示唆していませんし、パウロもその路線を踏襲しています。

「カエサルのものはカエサルに」
「外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか」

これらを無視し、イエスを信じていない非キリスト教徒に向かって聖書をテコにした政治的主張をいくら繰り返しても、それは魂の救済にはつながらない、つまり霊的にいったら「不毛」というものですし、ましてや社会変革によってこの問題を丸ごと解決しようとするとかならず無理が出てくるのです。

社会運動というのは最初は「弱い者を救う」という志から始まったものでも、その運動が賛成と反対のダイナミクスにもまれるにつれて、先鋭化しどんどん過激になります。

いつのまにか、「同性婚に反対する」「男女の性差に言及する」だけで仕事を首になる、そんな極端な例でなくともトランスジェンダートイレ問題のように、「マイノリティ」に便宜を図ってあげるつもりが、行き過ぎて「マイノリティ」以外の多数派すべてに犠牲を強いることになるのです。

恐怖による沈黙か、あるいは嫌悪しか生み出さない

プログレッシブ的にいえば、プログレッシブ運動目標が達成されるために「多数派が支払う犠牲」は「アナタタチはいままで差別されることもなくいままで『特権』を享受してきたのだから、その犠牲を払うのは当たり前だ」ということになるのかもしれません。

・・・・しかし、現実的には、それを聞いて「はいそうですか」と納得する人はどれだけいるでしょうか?多数派が感じているいかんともし難い感情的抵抗感はどうするのでしょうか?

いや、むしろ、こういった要求を機に、こういった社会運動そのものは勿論、かかる「マイノリティ」当事者に対してさえも「嫌悪感」「反感」を募らせてしまう人もいるのではないでしょうか?

欧米事情を観察してきた筆者から言わせていただくと、プログレッシブ・キリスト教のような宗教的なものであれ、あるいは非宗教・世俗的なプログレッシブ運動であれ、プログレッシブ思想を社会で推し進めることによって、社会に愛があふれるどころか、むしろ逆の作用がおきてしまうような気がします。

どういうことかというと、こういうことです。

プログレッシブ的運動を推進するひとたちは必ずそれに対する抵抗に遭遇します。

トランスジェンダー問題、あるいは同性婚問題はもちろんのこと、アメリカでいえば不法移民や難民の受入等、どれをとっても両論があるものです。

「生物学的男性が女子トイレに入ることを許可されるのはどう考えても不条理だ」「同性愛志向を持っていること自体はしょうがないにしても、同性愛行為が健康に害を与えるのは明白だ」「不法移民を許容していたらどんどん数が増え収集がつかなくなる」「難民はかわいそうだがテロを防止するために受け入れ制限はやむをえない」

これらの反論に出会ったとき、プログレッシブ唱道者たちが最終的にとることのできる手立ては、相手を「レイシスト」「差別主義者」「偏狭」「愛がない」「利己主義」と責め立てることだけです。

しかしほとんど罵倒といってもいいこれらの言説にさらされたとき、多くの相手は決して本心からプログレッシブ運動に同意することはないでしょう。

従って、憎まれ者になりたくない人は、表面的にプログレッシブ的言説にあえて反論せず黙っているしかないのです。

つまり、議論の結果プログレッシブが「勝利した」ように見えても、多くの場合は「恐怖」に基づいてプログレッシブ的価値観に「服従するふりをしている」だけ、ということです。

このことが顕著に現れたのが、あらゆるメディアと調査がヒラリー候補有利を喧伝していたのが実際はトランプ氏勝利に終わった2016年秋の米国大統領選でしょう。

この選挙では、「性差別」や「LGBT差別」(*)に加えて、「不法移民問題」が大きな争点となりましたが、国境を管理し入国関連法の厳格な執行を標榜するトランプ氏を支持する者は(都市部においてはとくに)徹底的に周囲から罵倒されたようです。

*奇妙なことに、トランプ氏はLGBT問題については、同性婚証明書発行の職務を拒否したあのキム・デイビス女史の行動を擁護せず「同性婚は”law of the land”だ」と主張するなど、他の共和党候補に比べ中立的な主張をしていたにも関わらずいつのまにか「LGBT差別」側にラベリングされていました。

従ってトランプ氏に投票した有権者の多くが、周囲から攻撃されるのを恐れてその政治志向を秘匿していたと言われています。しかしそのように沈黙させられていた人たちが何も言わず一票を投じた、というわけです。

筆者のみるところ、アメリカにおけるこの両陣営の対立は今後も決して沈静化しないと思います。

「女性差別撤廃」「トランスジェンダーの権利推進」「不法移民を歓迎しよう」・・・プログレッシブ運動の盛り上がりによってアメリカにもたらされたのは、愛の広がりでも和解でもなくて、むしろ沈黙、恐怖、対立の先鋭化であったのでは?と筆者は考えています。

だから、キリスト者のうちでその運動に入れあげている人たちを見るにつけ、私は彼らは自分たちのやってきたことの帰結こそが現在の分断された米国であることを悟ってほしいと願わずにいられません。

(彼らはおそらく、「いや、米国の分断はトランプ支持者が悪いのだ」「『レイシスト』のせいだ」「『白人至上主義者』だ」「あいつらは過去の遺物だ、そのうち滅びる」と片付けるでしょうが、何の解決にもなりません。プログレッシブに同意しない人たちが一定数存在しており、たとえ罵倒によって沈黙させられたにせよ、それだけではけっしてプログレッシブの政治意思に従うことはないからです。)

ましてや、人種差別・奴隷制度の反省の念に付け込みやすい欧米人とは来歴や土壌の違う日本に無理やりプログレッシブ思想を持ち込んでも混乱以外のものは決して生まれないでしょう。

その運動に引き込まれてしまったキリスト者さんたちに言いたいです。

果たして政治的立場を元にキリスト者どうし罵りあうばかりか、社会全体に分断と恐怖と憎しみをもたらすのがキリストの心なのでしょうか?

福音書の書かれた目的(ヨハネ20:31)に立ち返り、これをやめることができる人が一人でも出てきてほしい。これが筆者の願いです。

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Benjamin Corey 博士非暴力主義返上?

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プログレッシブ・キリスト教の水面下での浸透:欧米から日本へ (番外編2)

Benjamin Corey 博士非暴力主義返上?

去る8月12日、米国バージニア州のシャーロッツビルで、南軍を記念する像の撤去に抗議する集会を開いた人々と、その集会に対抗するため集まった群衆の間に暴力的衝突が勃発し、前者の集団の男が女性を車ではねて殺害するという悲劇に至りました。

これに対し「双方に落ち度がある」と発言したトランプ大統領ですが、全米の主流メディアの多く(そして追従する日本主流メディアも)が、前者の集団には白人至上主義者、ネオナチ、KKKなどが含まれていたことなどを引き合いに、「白人至上主義を容認するのか」と総攻撃することになりました。

一部では、抗議者側の「アンティファ」もまた極めて暴力的であり、しかも前者集団と違って集会許可さえとっていないことが指摘されましたが、その情報は周縁的な扱いに終わりました。

過激非暴力でおなじみの 急進的プログレッシブ・キリスト教(キリスト教進歩主義)指導者のBenjamin Corey博士はというと、やはり「双方に落ち度がある」というトランプ大統領を非難。

つまり、Corey博士は「ネオナチ」に対する「アンティファ」の私的制裁を支持しているかのような心情をにじませています。

博士の「ネオナチ」に対する嫌悪感は、完全非暴力の信念をも揺るがすほど強いものなのでしょうか。

非常に興味深いことです。

以下博士のブログ記事より。

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親愛なる宗教右派へ。君らはたった今、ナチスへの暴力を信じると私に言い終わったばかりじゃないか?

宗教右派に属する友人たちに対して、私は深刻かつ正直な疑問を抱いている。なぜなら、君たちが最近私に言ったことが、君たちの実際の立場について、私を混乱させているからだ。

アメリカの都市が、高慢な白人至上主義ナチスの群れから襲ってくるテロを目撃した。リベラルであろうと、保守であろうと、その中間のどこかであろうと、私たちのほとんどが、彼らは人類が持ちうる最も悪質で不快な信条体系を持っている者たちだ、ということに長らく合意してきた、そんな人々だ。

彼らナチスはネットの暗闇から出現した。匿名のアバターを脱ぎすて、そのアイデンティティを隠蔽するための白いフードを被ることさえせずに我々の前に現れ、そして文字通り人々を殺し、負傷させるに至った。これは、憎悪の上に成り立ち、究極的な目標として正しいDNAをもたない他の人間たちを圧倒し根絶することを掲げる信条体系の、自然な結果だ。

その政治志向にかかわらず、我々の全員がかつては、白人至上主義ナチスは無視することのできない悪を代表している、と主張していた。トランプ大統領が殺人と暴力への非難を彼らから逸らし、これらナチスに対して立ち上がる勇気のある者たちにその非難を向け始めるまでは。

大統領が非難を逸らしたことは私を驚かせなかった。これらのテロリストたちは、文字通り彼に見えるようにデザインされた制服を着ていた。彼らは、彼の基盤の一部、そしてそもそも彼がどのようにして大統領になったのかの一因だ。また彼が、「オルト・レフト」という、若干ナチスと道徳的に同等であって、等しく暴力に責任があるかのような絵を描こうとしたことも私を驚かせなかった。その暴力で死んだのは抗議者であって、ナチスではなかったが。

しかし、私が驚いたのはこの点だ。宗教右派に属する君たちの多くが、これに飛びついた。私が人殺しの白人至上主義者を公に非難し反対の声を上げると、君たちの多くがすばやくトランプの論点を繰り返し、このようなことを言って私を押し返した。「だが、君はナチスに対して暴力を使おうと考えている者たちを無視していないか?彼らもまた間違っているのだ、ベンジャミン。」

あらゆる場合に、右翼のコメンテーターはナチスが実際にアメリカの街で人々を殺し負傷させたという事実を退け、そのかわりにこう言った。「そうだ、だがその街にいた人々のうちの一部はナチスと戦うため暴力を使おうとしていた。だから、彼らはどちらも起こったことに対して責任がある。」それが、次のような自問自答をする私の顔に困惑の色を浮かべさせた。

「君はたった今、ナチスへの暴力を信じると私に言い終わったばかりじゃないか?」

分かるだろうか?もし、いつか私のことで思いだされることがあるとしたら、それは私がキリスト者非暴力主義について私がしてきた仕事についてであってほしい。私は、イエスはただ我々を招いただけでなく、我々に対して、敵を愛し目には目で報復したり暴力的手段で悪を止めようとしない、そんな人々となれと命令されたと信じる。イエスに従う者の人生に、暴力が入る余地はないと私は思う。イエスの言葉を読み、私たちが模倣するための模範として彼が生きた完璧な人生を見るとき、私は他にいかなる道も知らない。事実、この点についてのイエスの教えは他のどの事柄についての教えよりも力強く、敵を愛し相手に暴力を使わないという決意は、神の息子・娘となるための実際の要求事項であったと従う者たちに対して教えている。(マタイ5:45)

このことについては長年の間たくさんのことを書いてきたが、これに対して最も強力に押し返してきたのはアメリカの宗教右派だった。イエスが我々に対して暴力的になることを禁じたという考えは彼らにとってはいまいましいものだった。かわりに、悪を行う者たちが他人を害することを決意しているときには、彼らを止めるために暴力をもって立ち向かうのは神から与えられた責務だ、と私は繰り返し聞かされた。

そしてここへきて、これら全てが、最近のナチスと抗議者たちとの間で「双方に落ち度がある」というナンセンスに適用されるというわけだ。

これでは、宗教右派にいる者たちは毎日私に言っていることを完全に反転させる必要が出て来る。

知ってのとおり、敵を愛する非暴力の教えに対して押し返すごとに、彼らはすばやく同じ議論をする。私の非暴力の立場が間違っているか愚かだと信じる彼らのシナリオがエスカレートすると、彼らはいつも(本当に、いつも)同じトランプカードを引っ張り出す。それが、なぜ非暴力の道が間違っているかを証明する全ての反証の母、であるかのように。

「ああそう?じゃあ、第二次大戦でのナチスはどうなんだ?前の世代が、このような悪は暴力のみでしか止められないことを知っていたことを感謝すべきだ。」

私は、ちょうどナチスがアメリカの街を行進し、人々を負傷させ殺した最近の事件がちょうど起きるその時点まで、この議論を千人の人々から千回聞いた。しかしそれで?彼らは今度は、どうやらナチスに暴力で立ち向かうのは同じくらい間違っていると考えているらしい。

そこで、両方が等しく間違っていると私が言わないのを非難しようとする右派のキリスト者の友人に対する私の真摯な質問はこれだ。「君はたった今、ナチスへの暴力を信じると私に言い終わったばかりじゃないか?」

嘘をついてはいけない。我々は両方とも、君がそう言ったことを知っているし、私が非暴力の記事を投稿するび君がほとんど毎回そうしてきたことを知っている。

で、なぜ変わったんだ?

なぜ君は第二次世界大戦におけるナチスへの暴力的対抗は、ただ必要だっただけでなく、良いものであったと信じ、その一方で今日の世界では同じ悪に対して立ち向かうために暴力を使おうとする意図が道徳的にナチスの悪と同等になってしまうと思うのか?

私の立場は一貫していて、いつもこれだ。私は、私がいつ暴力を見たときもこれに反対する。しかし君の立場は?

つまり、君の5分前の立場はナチスの勃興に対する暴力的対抗は、いくつかの暴力は良く、必要であって、神から命ぜられたものであるということの証拠であるわけだ。君は、往年のアンチ・ファシストたちをわが国から出た最も勇敢な人たちと考える。それだから、彼らはしばしば「最も偉大な世代」と呼ばれる。

しかし、人々が、君が長年賞賛してきた価値観を生きつづけようとするとその瞬間「オルト・レフト」と呼ばれる?

君は心変わりしたように見えるし、5分前バージョンの自分に今は同意していないようにも見える。

私の真摯な質問は残る。

何が変わった?

なぜなら君はたった今、ナチスへの暴力を信じると私に言い終わったばかりじゃないか?

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「全ての暴力を否定」→「だがネオナチへの暴力は否定しない」

これは過激プログレッシブ・キリスト教(キリスト教進歩主義・・・ただし、必ずしもCorey師に同意しないプログレッシブ・キリスト教信者の方もいらっしゃるので留保のため「過激」と付しています)の欺瞞性が明らかになった案件といえるのではないでしょうか。

なによりも矛盾するのはこの点です。

すべての暴力に反対する完全非暴力主義を貫くならば、ネオナチ・白人至上主義者・白人ナショナリストなどがオルト・レフト(オルタナティブ左翼)やアンティファ(反ファシズム主義者)に対して振るった暴力にも、また逆に後者集団が前者集団に振るった暴力にも、両方反対しなければおかしいはずです。

文字通りすべての暴力に反対するならば、Corey 博士は自動的にトランプ氏と同一の結論にならなければ筋が通らないのです。

つまり、Corey博士は、「私はトランプにはいつも反対しているが、今回だけは、彼の言うとおり、私も双方の暴力に反対する」と発言していなければならないはずで、そうしないならば、結果として自らの従前の主張を裏切ることになってしまうのです。

実際、「ネオナチ」に対し暴力的抗議を展開する「アンティファ」に対するCorey博士の批判は、大目にみても、大幅に手心が加えられている、というよりむしろ全く存在しないようにも見えるのは不思議です。アンティファについては、「敵を愛し、悪をもって悪に報いない」という厳しい戒めから免除されるのでしょうか。

国家による暴力と私人の暴力の混同

また、博士の友人の右派キリスト者たちの意見の矛盾に「鋭く」切り込んで得意になっているつもりになっているようですが、残念ながら博士の指摘はまるで的外れというものです。

博士は、右派キリスト者たちが、博士の完全非暴力理論を論破しようとして、ことあるごとに第二次世界大戦中の「ナチスに対する戦い」を引き合いに出しているのに、同時に現代アメリカにおける「ネオナチ」への暴力には反対しているのはおかしいとして、いちじるしくご立腹のご様子です。

しかし、国家による暴力と、私人による暴力は、全く質の異なるものです。

国家による暴力は、おおまかにいうと2種類に分けられます。1) 刑法に違反した者を逮捕し、裁判にかけ、有罪になった暁には収監、懲役などの処罰が加えられるというもの。および 2) 国家の代表者たる政治指導者の決定あるいは議会の決議により外国勢力(国家あるいはテロ組織など)を敵と断定し宣戦布告して武力を発動するというものです。

前者の場合、立法府による討議を通じて、何をもって違反とするかも、その処罰内容も前もって明文化され、また起訴対象者には弁護士をつける権利や否認や抗弁を展開する機会も与えられるのですから、完全とはいえないまでも、誤認によるいわれのない暴力を受ける可能性は軽減されているといえるでしょう。また、こんにちでは誤認逮捕や警官による過剰暴力に対して裁判所に訴え、救済措置を要求する道も備えられています。

後者の場合も、やはり政治指導者や議会が決定をくだすにあたっては相応のプロセスがあるのに加え、まず外交の場を通じて相手国に対し警告を発し、それでも解決しない場合軍事的オプションが検討されるという流れですし、またそれが一度発動すれば、作戦立案にあたる将校から末端の兵士まで訓練を受けた軍人が任務にあたります。また、その遂行過程において交戦の相手は(そもそも制服を着てその国の武器を使用している以上)間違えようもないものです。非戦闘員が死ぬことはないわけではありませんが、一義的には敵の戦力を削ぐことに力が集中されます。そうして、情勢の推移により停戦あるいは講和条約の締結がなされ、もしくは片方が降伏することにより戦争状態が終結します。

第二次大戦のナチスに対する戦いはこれにあたりますが、国家ぐるみでその支配地域をヨーロッパ全域に広げようとしていたのですから、脅威にさらされる側は逃げるか戦うかしかないのであって、以前取り上げたBrian Zahnd 牧師のような夢想を真剣に前提とする場合や、Corey博士お得意の「イエスによる、国家指導者に対する絶対非暴力命令」説を本気で受け取る向きは別として、通常国家が後者を選んだとて別段非難されるいわれはないといえるでしょう。

(別に非難してもいいですが、多くの場合「ならあなたは私たちの生命や財産をどう守ってくれるのか」と国民から冷たい視線を向けられるのが関の山といえるでしょう。)

ひるがえって、Corey 博士が「勇気ある人々」と持ち上げる、シャーロッツビルで「ネオナチに立ち向った人々」はどうでしょうか。

ここでは、国家からなんらの資格も訓練も与えられていない私人が定義さえもはっきりしない「ネオナチ」という標的を自らの判断で勝手に特定し、任意に暴力的制裁を加えるという点で問題があります。

これは、きわめて軽率であるのみならず、法治国家の根幹を脅かす行為です。

そもそも、件の集会自体は自治体(追記:正確にいうと裁判所)の許可を得て行われていますから、その集会を差し止めたい場合、反対派は本来なら地方議会や自治体トップ、裁判所などに許可の撤回を請願するか、「ネオナチ」の活動一切を禁じる法案を通過させる、といった正規のプロセスを経る必要があったのです。

単に「ネオナチ」だから、という理由で手に手に武器を持って制裁を加えようと集まってきた者たちは、正規の手続きを経ずに自らの政治意思を実現しようという行為に出たという意味で、「テロリスト」と定義しても言いすぎではないでしょう。(日本でいえば「●ばき隊」がこれに相当するでしょう。)

人種差別主義者であろうと、ネオナチであろうと、私人が相手を任意に特定して暴力的制裁を加えることを許してしまうと、一体何が起きるでしょうか。

そうすると、ひどい場合には本人に何の自覚がなくとも誰かから「ネオナチ」と断定され暴力を受けるといった事態まで起きるのです。
www.independent.co.uk
A man was attacked with a knife after being mistaken for a neo-Nazi because of his hair style, his friends say. Joshua Witt, 26, was stepping out of his car outside a ...
米コロラド州で26歳の男性が車から降りたところ、「お前はネオナチか?」と聞かれたあとナイフで襲われた。男性はとっさに手で防御し、親指付近を3針縫う軽傷を負った。本人はネオナチとの何の関連もなく身に覚えがないが、友人から髪型がネオナチを思わせるという指摘を受け、髪形を変えることを検討しているという。

つまるところ、この件は、「人種差別主義・白人至上主義を許容するのか?」という問題とはまったく無関係です。

むしろ、この事件は純粋に「私人によるランダムな暴力制裁を許容するのか?」という問題なのです。

国家による暴力は、民主主義による政治と法律によって制限される限りにおいて、また国民の財産安全を保護する目的のため、許容すべき局面が多々ありますが、私人による暴力(明らかな自己防衛や緊急避難の場合を除く)は「私刑」の横行につながりかねないので許容できないのです。何の矛盾もありません。

正規の司法手続き、証拠主義や「疑わしきは罰せず」といった原則はダテにあるわけではありません。パキスタンといった第三世界では、「冒涜」を理由とした私刑が横行していますが、前述の原則を無視した「私刑」の許容は、前述のようないわれのない「巻き込まれ」被害は勿論のこと、ヘタをすると、近所のトラブル、財産関係のやっかみ、思想信条による反目といった理由でのランダムな暴力が後付で「ネオナチ」という言い訳のもと正当化される、といった事態を招きかねません。

「あいつはネオナチだ」と一言言われただけで、何の手続きも証拠も抗弁機会もなく道端で制裁される世の中など、いったい誰が望むのでしょうか。

また、そのような風潮が蔓延した場合、その周辺当事者たちは身を守るため以下のどちらかを選ぶでしょう。すなわち、その風潮に乗って自分もこぞって「ネオナチ」への制裁に参加することで「ネオナチ」でないことを証明するか、それとも自らの主義主張を変えず、またそのために武装して制裁者に対抗するようになるか、です。

そうすれば社会の崩壊はもう目前です。

シャーロッツビル事件の伏線?

筆者の私見ですが、この事件には下地があったと考えています。昨年2月のことですが、KKKがデモ行進を企画したところ、抗議者の集団が先に集合場所に集結しており、6人のKKKメンバーに多数集団で襲い掛かったのです。

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【2月28日 AFP】(写真追加)米カリフォルニア州(California)で27日、白人至上主義団体「クー・クラックス・クラン(Ku Klux Klan、KKK)」の集会中、これに抗議するカウンター(対抗)デモを行った人々との間で衝突が発生し、3人が刺され、13人が逮捕された。警察などによると、刺された3人はカウンター側で、うち1人は重体だという。

 AFPの取材に応じた目撃者のブライアン・レビン(Brian Levin)さんによれば、同州アナハイム(Anaheim)で正午ごろ、デモをしようと集まったKKKのメンバー6人をカウンターデモ参加者が取り囲み、少なくとも1本の角材を使って襲いかかったという。

 現地警察は「KKKのメンバー6人が到着した途端にカウンターデモの参加者が襲いかかった。この最初の衝突がきっかけとなってあちこちで乱闘となり、カウンターの参加者が刺された」としている。カウンターデモ参加者らはKKKのメンバー2人を踏みつけたという。逮捕されたのはKKK側が6人、カウンター側が7人で、それぞれの側で1人ずつが女で、残りは全て男だった。

 目撃者のレビンさんは、カリフォルニア州立大学(California State University)の「ヘイト・過激思想研究センター(Center for the Study of Hate & Extremism)」の所長で、第三者として現場にいたが、カウンター側が「KKKが乗ってきたSUV車のフロントガラスを割り、その時点で極めて暴力的な展開になった」と語った。

 中には倒れ込んだところをカウンター側に蹴られるKKKのメンバーもおり、レビンさんは両者の仲裁に入らざるを得なかったという。「私はKKKのメンバー2人がそこから出られるよう助けた。私は、キング牧師(公民権運動指導者のマーティン・ルーサー・キング)はこんなことは良しとしない、この人たち(KKK)に危害を加えるなと叫んだ」

 この後、レビンさんが、群衆の中から助け出したKKKのメンバーに対し「ユダヤ人に命を助けてもらった気分はどうだ?」と尋ねると、KKKのメンバーは「ありがとう」と答えたという。(c)AFP

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筆者の私見では、この件で学習したKKKや白人至上主義者たちは、集会をする際には武装することを心がけるようになったのでは、と思います。

集会許可撤回の請願や活動禁止の立法など「正攻法」をとらず、いきなり私人が暴力的制裁に訴えるから、暴力がエスカレートしていくのです。

ともあれ、話をもどせば、Corey博士の頭の中の「非暴力」主義は、「私は全ての暴力に反対する。だが、ネオナチと白人至上主義者に対する私的制裁だけは例外的だ。」と示唆しているかのようです。つまり非暴力主義からの転向と受け止めてもよいのではないでしょうか。

そのような、首尾一貫性のない「非暴力主義」は、国家と司法制度に対する博士の絶望的なまでの無知をさらけ出しているだけでなく、強烈なイデオロギー臭が漂っているため、そのイデオロギーに心から賛同する者以外には到底共感されることはないでしょう。

返す返すも残念なことであると同時に、既に日本のキリスト教界でも「平和運動のために牧師が暴力を振るう」ことを許容するかのような空気が一部界隈で漂っている以上、かかるイデオロギーが日本に浸透することがないよう警戒すべき事案と考えるべきではないでしょうか。

プログレッシブ・キリスト教神学に応答する(3) 「婚前交渉は罪ではない」by リベラル牧師&進歩主義信徒

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プログレッシブ・キリスト教の水面下での浸透:欧米から日本へ (23)

プログレッシブ・キリスト教神学に応答する(3) 

「婚前交渉は罪ではない」by リベラル牧師&進歩主義信徒

Christian News Watchから転載しました。)

某D志社系中学・高校の教師「婚前交渉いいんじゃない?」

日本にも「進歩的」な神学を提唱する本職の「牧師」さんたちはちらほらいるものです。

このウェブサイトの管理者さんは、旧約新約から聖句を縦横無尽に引用し、「婚前交渉がいかに罪ではないか」を証明すべく10000文字以上にもおよぶ熱の籠った記事を展開されています。
ichurch.me
下世話なQ&A このQ&A集は、すべて三十番地教会牧師がじっさいにオフラインで受けた質問に基づいて、構成されています。


婚前交渉に対し少しでも背徳性を仄めかしたり眉をひそめる向きに対しては断固として議論を挑み論破しきろうとするその熱意、

「人は誰からも批判されず自由な性行動を取る権利がある」というある種の(宗教的?)信念の熱烈な擁護者たる決意を感じさせるその姿勢は、ほとんど敬服に値するレベルといっていいでしょう。

しかし、その議論の末尾にはこんな但し書きがつけられています。

「ただし、くりかえしになりますが、セックスは創造的なエネルギーと共に、破壊的なエネルギーを秘めています。乱用したり過度に依存したりして、精神をめちゃめちゃに破壊してしまったり、生活を崩壊させる可能性もあります。」

「また、それ以前に、病気のリスクや妊娠など、喜びの関係であるはずのものが、一転して苦しみや悲しみの原因になったり、セックスしたふたりだけでは解決できないような問題に発展する場合もあります。」

「セックスにまつわるリスクや責任についての学習が、セックスの経験以前に大切であることは言うまでもありません。」(終)

つまり、この牧師さんは、破壊的なエネルギーを秘め、精神をめちゃめちゃに破壊したり生活を崩壊させる可能性や、病気・妊娠など苦しみ悲しみの原因となり二人だけでは解決できない問題を引き起こす可能性があると自らが認めるところの、まさにその行為について、

「相性を知る」ため、あるいは「一般的に知っておいたほうがいい」という理由で、結婚関係という防御体制抜きでやるのも悪いことではないと説いているわけです。

ちなみに、「セックスにまつわるリスク」を避けるための学習については、同牧師先生はその重大な必要性は示唆するものの、具体的な知識や洞察は何一つ提供していません

医者ではないのでしょうからある程度は仕方がないにしても、これほど重大なリスクがあるということを予告するだけで、その具体的な回避の仕方については一言もないのは、聞く若者にとって、どうにも隔靴掻痒の観があるのではないでしょうか。

なにぶんにも、これほどまでに破壊的な可能性があることをよく知ったうえで、あえて挑戦するというのは、相当のチャレンジャーに相違ありません。(欲に目がくらんでリスクを忘れた、というのでなければですが。)

少なくともリスクと利益との真剣な比較がなされていない以上、青少年一般に広くゆきわたることを許容すべき慣習とはみなすことができない可能性があります。

せめて、実体験に基づくアドバイスが何かあれば説得力もますのですが、それが全くないところを見ると、

個人的に筆者としては、同牧師先生が自身でそれをチャレンジしたり失敗した経験(あるいは身近でそのような失敗を見聞きしたこと)が皆無なので、このような呑気な提案ができるのではないか、と強く疑います。

つまり、この牧師先生は、自分が書いていることの本当の意味をまるで理解していない可能性があるのです。

問題は、このような牧師さんが某有名キリスト教系教育機関で長らく教師を務めているということです。その影響が次の世代にわたって出てくることを筆者は危惧します。

「現場の人」が語る生々しい現実

性について若者に何を教えればいいか、生命の現場にいる方々の洞察に耳を傾けてみるのも無益なことではないでしょう。

助産院を経営し、出産のエキスパートとしての立場から独自のアプローチによる青少年への性教育を提唱するある女性はこう呼びかけます。
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 しかし、皆さんにぜひ知ってほしいことは、「セックスは赤ちゃんが生まれる可能性がある行為である」ということです。赤ちゃんが生まれる準備ができていない、また生まれてくるいのちに責任が持てない間は、赤ちゃんが生まれてくる可能性のあるセックスはしてはいけないということを知ってほしいのです。 

 ところが現代は、「結婚していなくても、ティーンズであっても簡単にセックスしてもいい」という情報があふれています。漫画や小説を読んでも、TVのドラマやトーク番組でも、男女交際をしたらセックスするのは当然とでもいうような表現を見聞きします。

 そんな中で、中高生でもセックスの経験のある子もどたちがどんどん増えていっています。セックスをしている子の数が増えるということは、セックスそのものに対するハードルが低くなってしまいます。

 「セックスしても、妊娠しない子はたくさんいる」と思うかもしれませんが、たった1回のセックスで妊娠する子もいます。「コンドーム(後で説明しますが)で妊娠しないようにしている」という人もいるかも知れませんが、コンドームの避妊率(使用したときに妊娠を防ぐ確率)は90%前後、付け方によってはもっと低いかも知れません。小さないのちに対する責任や自分の人生への影響を考えると、この避妊率は決して高い数字とは言えません。

 また性感染症(これも後で説明します)の問題もあります。なによりも、将来結婚するかも知れないパートナーとの絆にも影響があることなのです。

 セックスを簡単に考える時代だからこそ、あえて「生まれる可能性のあるいのちに対して責任が持てるまで、自分はセックスしない」という生き方を選択してみませんか。

---------------------------(引用終わり)

神学的枠組みにおける議論とは少々異なりますが、「命に責任が持てるようになるまでNO SEX」というこの方の結論は、はからずも聖書の「伝統的な解釈」から導きだされる道徳律には合理性があるということを示唆していないでしょうか。

また、婚前交渉は問題ないという見方が広がる昨今の世相に向き合う若者たちに対して著者はこう畳み掛けます。

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・・・皆さんにお願いがあります。「結婚していなくても、ティーンズであってもセックスしていい」という言葉に出会ったら、「本当にそれでいいの?今の私たちは赤ちゃんに対して責任を持つことができないんじゃないの」という言葉を発信してほしいのです。

------------------------------(引用終わり)

もはや、何の反論もしようがありません。

しかし、この著者はもっと生々しい現実に踏み込みます。

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赤ちゃんを育てる準備が整っている状態で赤ちゃんがお腹にやってきたときは、とてもうれしいものです。赤ちゃんを待っていた人にとっては、この上もない喜びです。しかし、赤ちゃんを育てることができないのに妊娠したときは、途方に暮れてしまいます。

「月経(生理)が来ないなあ。もしかして妊娠したのかな」と不安に思いながら、時間がどんどん過ぎていき、検査を受けるのは月経が遅れて1か月頃のことが多いでしょうか。その頃の赤ちゃんは、心臓もしっかり動いています。現実を受け入れるしかありません。お腹に赤ちゃんがやってきたら、女の子たちは、そこから逃げることはできませんし、後に戻ることもできないのです。

一方、男の子たちは付き合っていた女の子が妊娠すると、しばし戸惑うものの、後は逃げの一手。連絡が取れなくなってしまったり、関わろうとしない子がほとんどです。

・・・・・・・実際少し前にも、「僕が責任を取ります」と言ってくれた男の子がいました。しかし、「責任」と言ってもどう責任を取るのでしょうか。経済を支えることができない。しっかりとした家庭を築く力もまだない。もし異常妊娠や異常出産の場合でも、治療をするための同意書にサインすることもできない立場で、どう責任が取れるのでしょう。「責任を取ります」と言うのはカッコいいと思います。でも現実は悲しいことですが、無理なのです。

------------------------------------(引用終わり)

実にリアルな話です。(無論、リベラルや進歩主義の神学者様たちは神学的議論に忙しいためこのような現実はご存じないのでしょう。)

この著者の別の著書によれば「(妊娠したかもしれないと相談に訪れる)多くの女の子たちが口にする言葉は「妊娠するとは思わなかった」」だそうです。

「婚前交渉はしてもいいんだよ」というメッセージを発信する大人たちは、多くの場合そのリスクについては言及しないか、たとえ言及したとしてもリスク回避の方法について十分な知識を提供していません。

(「○○しとけば大丈夫じゃない?」としか言わない(医者でもないのに!)。)そのような大人たちは果たしてこのことに対して責めを負わなくてよいのでしょうか?

また、彼女はこうも語ります。「(中絶手術で)生まれた胎児は、まだ温かく、息をしていることもあります。」

妊娠中絶に纏わる議論というと、胎児を人間として扱うか否かに焦点が向けらがちですが(そしてそれは正しいことだと筆者は個人的に信じますが)、中絶処置を行う医療従事者たちの心理について注意が向けられることは少ない気がします。

掌の上でまだ息をしている胎児を「中絶」処置する医療従事者さんたちの気持ちはどのようなものでしょうか?

中絶を決意して相談に来た女性に、「いや、産むしかないんだよ」と説得して思いとどまらせようとする中絶医も中にはいる、と筆者は聞いたことがあります。

しかし、依頼者の意思がそれでも固ければ医療従事者たちも処置をせざるをえません。

「婚前交渉は何の問題もなく受け入れられる行為である」というメッセージによって、予期せぬ妊娠をした少女たちとその胎児たちがツケを払わされているのはもちろんのこと、医療従事者たちも、本来なら生命を助けるための技術を「後始末」のために使うことを余儀なくされています。

そんな現実を尻目に、一部のリベラル・進歩主義界隈のキリスト者教師や唱道者たちは、

「人はあらゆる性行動を思うままに行ってよく、誰もそれを批判することはゆるされない」

というその奇妙な(宗教信念にも似た)確信を流布するために、難しい神学書を何冊も読破し、ありとあらゆる神学的理屈で理論武装したうえで、自らに反論しようとする議論を「差別」だ、と激しく罵り攻撃しています。
twitter.com
“同性愛は罪ではない。 トランスジェンダーも罪ではない。 婚前交渉も罪ではない。 差別は罪だ。 自分の偏見を認めず人を断罪することは罪だ。 自分の聖書理解を「神の真理」ど同一視して線引きし、他人を排除し否定することは罪だ。 教会はずっと間違ってきた。悔い改めるか滅びるかだ。”
それにしても彼らは上述の価値観を支持することによって、、自分たちも結果としてこの悪しきサイクルに加担してしまっているという自覚はあるのでしょうか?

ともあれ、これについての延々とした衒学的な神学論争はもうやめて、このように話を単純化すべきです。

「人に予期せぬ妊娠のリスクを負わせる行為は罪じゃないんですか?」

どんなアクロバティックな反論が返ってくるか、ぜひ聞いてみたいものです。

プログレッシブ・キリスト教神学に応答する(4) 「ポリアモリー」:進歩主義神学の"最新成果"

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プログレッシブ・キリスト教の水面下での浸透:欧米から日本へ (24)

プログレッシブ・キリスト教神学に応答する(4) 

「ポリアモリー」:進歩主義神学の"最新成果"

Slippy slopeという言葉があります。滑りやすい斜面という意味です。

このフレーズは、「あることを許したら、別のこれも、あれも、どんどんなし崩しに許されるようになってしまう」といった状況を言い表す場合によく使われます。

プログレッシブ(進歩主義)神学についてのいろいろな観察をいままで掲載してきましたが、

今回の記事は、その、滑りやすい斜面を滑り始めたプログレッシブ(進歩主義)神学による「最新成果」のご紹介とでもいうべきものです。

「ポリアモリー」を支持・正当化しようとする動きが今まさにキリスト教界の中で始まっています。

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教会がポリアモリーについて語るべき時が来た

Chuck McKnight
www.patheos.com
However, the same can’t yet be said for another relational orientation: polyamory. Polyamory, defined in a recent, wide-ranging survey as “consensually non ...
キリスト教会は人間のセクシャリティに関する事項について長い道のりをたどってきた。中でも注目されるのは、教会におけるメインライン、進歩主義およびリベラルの多くの流派におけるLGBTQコミュニティーへの支持という前進である。我々は未だに長い道のりの途上にあることを否定するものではないが、私は我々の大きな一歩を誇りに思う。また私は、クイアーでありつつクリスチャンであるということは何を意味するかを見出すため、我々が対話し今そこにある問題に取り組んでいるという事実を誇りに思う。

しかし、関係に関するもう一つの志向性について同じことはまだ言えない。それはポリアモリーである。

ポリアモリーとは、最近の広範囲な調査によれば「互いに同意した、非一夫一妻的な関係性であってそのどちらか一人、両人、あるいはそのロマンティックな関係に関わるすべての個人が、性的および/またはロマンティックなパートナーを持つということに公の合意がなされているもの」と定義されている。それは、世界的な幅広い文化において、そして教会の内部でさえも、隆興を見せている。透明性のために言及するなら、私もまた、私の妻とともに、自身がポリアモリーであって、結婚生活をそのように開放することを最近決意したことを明かさなければならない。

いくつかの会話が確かに起こったが、それらは教会全体のレーダーの感知しないところで行われてきた。確かに、そこには多くのささやきや噂があるものだ。そして、保守的な番犬たちからのお決まりの反応があり、LGBTQ支持からポリアモリー (まるでそれ自体が明らかな問題であるかのように) に至るまでの「滑りやすい坂道」について警告を発している。また、いくつかの支持の声もまた、過去数年越しに聞こえてきている。(感謝。)

しかし、目立たないながらも、数千人の忠実なクリスチャンは、彼ら自身才能があり、尊厳と価値を持っているのにほとんど何の霊的支援も受けずに、ポリアモリーを実践している。

これは重要な疑問を提起する。これについての公的で真剣な議論はどこで行われている?なぜほとんどのLGBTQ支持教会は、同じようにポリアモリーな人々への支持を声に出さないのだ?または、もし彼らが同性愛的は支持するがポリアモリーは支持しないというなら、なぜそれを明確にしたり、その理由を説明することをしないのだろう?

クリスチャンの視点から見た同性愛問題についての本は、数千とはいわないまでも、数百冊も出版されている。しかし、私はポリアモリーに関する本を教会で見かけたことは一度もない。(もし知っていたら教えてほしい!)

最近のいわゆる「ナッシュビル声明」は、それに対抗する多数の [同性愛] 支持信条の表出を招いた。(実際のナッシュビル住民からのものも含まれる。)しかし、ポリアモリーが [ナッシュビル声明による] 最初の攻撃の対象となっていた事実に取り組んだ意見は、(私自身のものを除き) 著名なところでは一つしか見かけなかった。

「我々は、神が結婚を同性愛的、多重婚的あるいはポリアモリー的な関係としてデザインしたことを否定する。」

多くの友人たちや潜在的アライが沈黙しているのはなぜだろう?(メトロポリタン・コミュニティー・チャーチが例外となっていることに敬意を表したい。)

ここで、教会がポリアモリーについての議論を始めなければならない理由が5つある。

前述したように、多数の忠実でポリアモリーなクリスチャンたちが既におり、彼らはしばしば、最初からその信仰コミュニティーから締めだされているように感じる。もし教会がすべての人々のための教会であるべきなら、我々はポリアモリーでありながらクリスチャンであるということの意味を議論しなければならない。この種の関係を単に脇に追いやることはできない。

加えて、さらに多数の忠実なクリスチャンたちが、自分たちはポリアモリーであると感じているか、実際にそうであるかどうか確かめてみたいという気持ちにひきつけられているが、それが彼らの信仰と両立するかどうか確信が持てていない。

これに関連して、多数の人々が、やむなくか誤解によってか、彼らのポリアモリー的関係はそこでは歓迎されないと推察して教会を去っている。

さらに、もしも歓迎されないという同じ推察さえなければ、ポリアモリーのノンクリスチャンであって、キリスト教信仰について学び、実践してみたいと考える人々は十分いる。

最後に、ポリアモリーは実際にあり、そして我々が個人的にどう考えるかに関係なく広がっている。我々は、広い範囲の非一夫一妻的関係がどのように見えるか、どのように働くかを、たとえポリアモリーの隣人をよりよく理解し関わるためというだけの理由であっても、学ぶ必要がある。

・・・・・・・・・
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やれやれ。(ため息)

ポリアモリー的結婚というと何か高尚に聞こえますが、要するに「不倫」あるいは「ダブル不倫」、もっとありていにいえば「乱婚」以外の何者でもありません。

驚くことに、上記のような主張は例外的、単独のものではなく、賛同する投稿がこの記事が掲載されているPethoesというプラットフォーム上に次々と現れています。


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ポリアモリーと神の王国

Christian Chiakulas
www.patheos.com
Polyamory is of God because unlike monogamy, it is a truly free expression of love.
最近、私の友人でPatheos ブロガーのChuck McKnight はポリアモリーについての一連の投稿を発表した。Chuckと彼の妻は彼ら自身ポリアモリーであって、あなたがたが想像するように、彼はあえてこの対話を始めるにあたってかなりの勇気を奮った。Gospel Coalition は彼や、私のポリアモリー友達を狙って、ポリアモリーについてこう警告した。「それは、キリスト教史と神学の修正主義的な読み方によって、互いに同意していればいかなる性的関係も正当化したがっている自称クリスチャンたちの中で受け入れられようとしている次なるムーブメントである。」

最初の大きな問題点は、上記のリンクの記事の著者であるC. Daniel Motleyは、「キリスト者の性倫理の正しい理解」に訴えているという点だ。私は、これを、Gospel Coalition によるキリスト者の性倫理の理解、という意味と推察する。不運なことに、他のほとんどの福音派と同様、Motley は、あらゆる種類の歴史的・批評的分析を欠いているにも関わらず彼の神学的見方が正しいという自動的な前提のもと書いている。

Chuck McKnight と Jeff Hood は、クリスチャン・ポリアモリーのための非常に創造的な解釈学的議論を展開している。Motleyのような人々の恐れるのは、このような人々の解釈が、Gospel Coalition のそれと同等に(おそらくは、それ以上に)、あらゆる点で有効であるということだ。なぜなら、両者ともが極めて個人的な聖書解釈と神的体験に依存しているからだ。

私自身もそれには問題ないが、私はやや違うことをやろうと思っている。ポリアモリーを擁護するかわりに、私は一夫一妻制を批判する。

一夫一妻制は、正統的キリスト者信条の一部をなすかもしれないが、神の王国に関する強固な物質主義的理解 (イエスによる、抑圧のない新しい世界の計画) によるならば、一夫一妻制は本当にキリストから来たものなのかについて深刻な疑問が生じる。まず、われわれは一夫一妻制がどのように現れたか理解しなければならない。

ショックかもしれないが、初期の人類は一夫一妻制ではなかった。創損論的若い地球を信ずる人々は納得しないかもしれないが、われわれのうちの合理的な人々のためには、人類の家族の発展の歴史は、我々がかつてどこにいてこれからどこに行くのかについて手がかりを与えてくれる。

なので、我々は、当然のこと、この主題についての示唆にとんだ書物である、Friedrich Engelsの手になる「The Origin of the Family, Private Property, and the State」を見てみよう。Engels は北アメリカ、ハワイ、インド、そしてオーストラリアの部族社会について書いている。

ここで、我々は、これまで唯一有効であると一般的に見られてきた形式と直接矛盾するような家族の形態をとってきていたことを見出す。伝統的考え方では一夫一妻制、また加えて一夫多妻が個々の男性の側で、一妻多夫が、概ね個々の女性の側で認められてきた。ペリシテ人たちを道徳化するという見方として、実践的には、それは公的社会によって立てられた障壁を静かに、平穏裏に無視してきた。原始的な歴史の研究はしかし、男たちが一夫多妻で、その妻たちが一妻多夫で生活してきた条件を発見している。そして、その共通の子供たちは、彼ら全員のものであると考えられてきた。これらの条件は、最終的に一夫一妻に行き着くまで長い一連の変化を経たのである。これらの変化の潮流は、かつては非常に広かった結婚という共通の結びつきの中に包摂される人々の範囲を狭めていき、最終的に一つのペアだけが含まれるようになるまでに至った。これが今日主流の結婚の形である。」

事実、我々のもっとも近い近縁である、チンパンジーやボノボ(その他の霊長目も)はポリアモリーを実践している。そこで、重要な質問がある。なぜ人類は、このように発展してきたのか?

(ごくごく)初期の人類社会は、Engels が名づけるところの「血縁社会」という仕組みを持っていた。このやり方においては、結婚する者たちの組み合わせは世代によって隔てられていた。兄弟たちは姉妹たちと、あるいはいとこ同士で結婚してもよいが、親と子、あるいは祖父母と孫たちはしてはいけなかった。加えて、「子供たち」は、その生物学的親たちの世代のメンバーすべての子供たちであって、親たちは、その生物学的子供たちの世代のすべての子供たちの親たちでもあった。

この種の家族構造は絶えたが、それを示す証拠は、ネイティブハワイアンの結婚習慣や、あらゆる道徳的倫理的タブーにもかかわらず、世界中の文化や社会でいまだに近親相姦が実践されているという事実からも垣間見られる。

家族というものの次なる発展段階は、きょうだい間での繁殖の制限である。(これは同じ母親から生まれたということ。人類社会はこの点で未だに母系社会であるといえる。)これにより、集団は拡張し文化的により早く発展することになり、Engels や同世代の他の人類学者たちが呼称するところの氏族、共通の女性の先祖を持つ拡大家族の単位、を構成することになった。(他の人類学者たちはこの用語を異なる方法に用いているが、Engels とその先達である Morgan はこの用語を使っている。)

この氏族によって、我々ははじめて族外結婚社会を持つこととなり、また Engels と19世紀人類学者が「文明」と呼ぶところの状態に大きな一歩を踏み出すことになった。しかし、われわれはまだ一夫一妻に達していない。これらの社会は、まだ集団結婚を実践しており、二人の個人は一時的なペアリング家族に入ることとなっていた。この種の社会の例としては、ヨーロッパ人たちと接触する前の多くのネイティブアメリカン部族に見られる。これはキリスト教ヨーロッパ人入植者たちを驚かせ、また彼らはこれを口実にアメリカの土着民たちを虐待することを正当化した。

Engels 他が呼ぶところの「バーバリズム」(その後多くの否定的意味合いを持つようになり、もはや人類学では使われていない用語だが)の後期段階に至るまで、一夫一妻は表れなかった。

一夫一妻制とは、「男性の優位に基づいており、その表出された目的は父系について議論の余地のない子供たちを生み出すところにあった。そのような父系が求められたのは、その後その父親の自然的な相続者として、父親の所有物となったからだ。これは、番うための結婚よりも、さらに強い、それぞれの当事者の願いによっては解消することのできない婚姻的結びつきにより他とは異なっている。ここでは、原則として、男だけがそれを解消し、妻を退けるkことができる。」

一夫一妻制は、所有財産という概念とともに、人類社会の発展の後期に現れた。これは、DNAテストの手を借りて父系を証明することのできなかった人類とって唯一の道であり、生来的に父権主義的であった。しかし、これは我々の性質でもなく、創造の最初の部分にも含まれていなかった。

これは、今日のキリスト者たちにとって何を意味するだろうか?

イエスは、神の王国を導きいれるために来られた。イエスの処刑後2000年の間にこの用語は意味の詰め込まれたものになってしまったが、それが最初の意味は、現在の時代が終わり、人類の歴史に新しい時代が始まるということである。イエスはそれをヒエラルキーの全く無い世界として概念化したが、彼が私有財産と父権主義から生まれた「伝統的な家族」に反対したのはそれが理由であった。それは、完全な正義があり、あらゆる形式の抑圧や搾取がない世界であった。

所有権により確保された一夫一妻結婚はブルジョア的な制度であって、父権主義とヒエラルキーを増長し、ゆえに神の王国と両立しない。キリスト者はただ単に御国を説くだけではなくそこに生きるよう召されているのだから、父権主義的一夫一妻家族制度は反対されるべきだ。この精神にあって、ポリアモリーはこの社会の結婚制度を心地よく思わわなかった人たちにとって、魅力的な代案になりうる。

彼らの違和感の理由は、資本主義のもとにあっては、一夫一妻はしばしば個人的選択と双方の合意を欠いているからだ。どれほど多くの人々が、経済的理由あるいは社会の圧力によって、悪い結婚をし、あるいはそのような結婚に留まっているのだろうか?過去数10年において急増した離婚のうちどれだけが、女性が、過去と違って、既に財政的に男性に束縛されていないことを理由としているのだろう? Engels は、真の一夫一妻制度は決して存在していなかったことを正しく指摘している。それは常に「蓄妾と売春に付きまとわれていた」のである。

ポリアモリーは、神からのものである。なぜなら、一夫一妻制と違い、これは真に自由な愛の表現だからだ。所有物によって、三人あるいはそれ以上の個人をポリアモリー的関係につなぎとめることはできない。彼らは、経済的理由でその関係に入るのではない。

もしもC. Daniel Motley と Gospel Coalition が一夫一妻の保護を真に気にかけているなら、私は彼らに対し、搾取からの解放を伝える革命的福音を採用するよう勧める。私有財産の廃止と社会主義的経済制度の確立がなされた後にのみ、一夫一妻制は経済的強要による締め付けを伴わないものとして存在できるからだ。 最後に Engels の言葉を添えて結びとしよう。

「...我々は今、迫りつつある資本主義産物の転覆のあと、性的関係がどのように秩序づけられるかについて推察することができる...どのような新しいものがありうるだろう?その答えは、新世代が成長したとき与えられるであろう。それは、女性の降伏を金あるいは他の社会的権力手段で買い取るということはどいういうことか、人生の中で決して知ることのなかった男たちの世代である。それは、真の愛以外のいかなる対価によっても、自身を男性に明け渡すこと、あるいは経済的帰結への恐れから自らを恋人に明け渡すことを拒否することを決して知ることのなかった女たちの世代である。

・・・・・・・・・・

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - (引用終わり)

なんとまあ、自分が堂々と不倫や乱婚をしたくてしたくてたまらないがために、エンゲルスの文書を引っ張り出して理論武装するとはなんともご苦労なことです。(キリスト教というよりむしろマルキシズムのにおいがプンプンしますが、まあ仕方ないですね・・)

一夫一妻結婚はブルジョア的な制度であって、父権主義とヒエラルキーを増長し、ゆえに神の王国と両立しない。キリスト者はただ単に御国を説くだけではなくそこに生きるよう召されているのだから、父権主義的一夫一妻家族制度は反対されるべきだ。

イエスご自身が結婚のなんたるかを定義(マタ19:5他)し、さらに使徒パウロがしつこいまでにそれを確認した(Iコリ7:1-4、エペ5:22-33等)のにもかかわらず、よくもまあこんなことが言えたものです。

なんにせよ、どの箇所をとっても凄まじいまでの論理の転倒ぶり、ですが、さらに上をいく投稿もあります。

以下は、最初の引用記事を書いた Chuck McKnight氏によるものですが、インタビュー形式で、主にしゃべっているのはJeff Hood 博士というバプティスト牧師です。

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南部バプティスト説教師がポリアモリーを支持 (Jeff Hood 博士・牧師へのインタビュー)
www.patheos.com
As part of the conversation on polyamory and the church, I want to bring some voices other than my own onto this blog. So you’ll be seeing a few guest posts and ...
ポリアモリーと教会についての対話の一部として、私は自分のもの以外の意見もこのブログで紹介したい。だから、読者の皆さんは、他のポリアモリ―実践者やポリアモリー支持のキリスト教指導者たちによるいくつかのゲスト投稿とインタビューを見ることになるだろう。もし自分も寄稿したいという人がいれば知らせてほしい。

今日、私はバプティスト牧師のJeff Hood 博士にインタビューする。

McKnight: あなたの南部バプティストの背景から、私は、あなたが常にポリアモリーを支持してきたわけではないと確信しています。あなたの見方がどのように変わったかを教えてもらえますか?何があなたの考えを変えたのでしょう?

Hood:古い木のドアは威圧的だった。強く押して、私はその一つを開けた。すべてがもう始まっていたから、私は後ろの席に腰かけた。私は愛のメッセージを聞き、それが、かつて感じたことがないほど私をひきつけた。それを知る前は、私は外の廊下にいた。道すがら、私はポリアモリーの声が繰り返しささやきかけるのを聞いたのだ。「なぜ私たちを迫害する?」と。自制ができず、私は叫んだ。「お許しください!」その瞬間私は崩れ落ちた。私は倒れる前、引き寄せる力を感じた。神からのポリアモリーは、私を罪人だと悟らせ、恵みによって私を引き上げた。聖なる三位一体が私を愛に導いた。周りを見ると、私はポリアモリーの証人たちの大群衆が「聖なるかな!聖なるかな!聖なるかな!神のポリアモリーの愛は!」と叫んでいるのを見た。甚だしい恵みの洪水が私の罪を洗い流した。私は永遠に変えられた。大きな抵抗のさなか、ポリアモリーは私の魂を救ったのだ。

McKnight: とても詩的な説明ですね。平易な言葉で私が理解できているかどうかを確認させてもらえますか。つまり、あなたの知識レベルでの反対論は、ポリアモリーの人々を実際に知ることで克服されたということですか?

Hood:私はポリアモリーの神が私の魂を救ったといいたい。私は以前見えなかったが、今は見えるのだ。

McKnight: あなたがどのように神をポリアモリー的であると理解するようになったのか詳しく教えてもらえますか。

Hood: 我々が神と分かち合っている愛以上に親密な愛はない。最初に、神は我々をその御姿に似せて造られた。我々は親密さを神と分かち合うために存在しているのだ。この関係はあらゆる種類の親密さを含んでいる。神がそのような熱情的な親密さを我々全員と持ちたいと望まれているという事実、それは確かに、神をして同時に複数の人間の恋人にならしめる。私はしばしば、ポリアモリーな人々は、他の誰よりも、神に似ていると考えることがあった。なぜなら、彼らは神の、甚だしいまで多方向の親密さを実際に生きているからだ。

聖なる三位一体はポリアモリー的関係だ。三位一体をそのように定義することなしには、誰もその三つの存在が常に経験している親密さと恍惚がどれほどのレベルかを語ることはできない。彼らの愛は、いままでもこれからも常に、分かち合われる現象なのだ。聖なる三位一体にあっては、愛は決して否定されない。我々は、ポリアモリーの人々の愛が決して否定されず常に擁護されることを確実にするために、人生を生きるべきだ。聖なる三位一体がそれを要求しているのだ。

神は我々とともにある。我々がもっと愛するほど、神もまた愛してくださる。我々は神に従うよう召されている。我々は、愛を作りつづけるよう召されている。ポリアモリーの人々はこれを行っている。どうして我々がそのような聖さを否定できるだろう?

神のポリアモリー性を説明するにはいくつもの方法がありえるが、そのうち最も重要な一つはこれだ。神は抑圧され周縁化された者たちのうちにお住まいになられる(マタイ25)。ポリアモリーな人々は常に抑圧され周縁化されてきた。神はポリアモリーなのだ。そして、われわれがもし救われたければ、ポリアモリーとつながりを持つ方法を探し出すべきだ。

見よ、私は神を見た。一つの側には、神、そしてポリアモリーたちとその賛同者たち、もう片方には、ポリアモリーの抑圧者たちが立っていた。私は大きな声がこう呼ばわるのを聞いた。「彼らが先に行く!」抑圧者たちは叫び始めた。「なぜ?」神は素早く言い返した。「私が私の家族を愛そうとしたとき、あなたたちは邪魔をした。私が結婚しようとしたとき、あなたたちはそれを禁じた。私がただたんにコミュニティーの一部となろうとしたとき、あなたたちは私を遠ざけた。」そして神は言った。「あなたたちの中のポリアモリーたちにしたことは、私にしたことなのだ。」ポリアモリーたちなしには我々は神を知ることはできない。

愛は常により大きなもの。

愛はより大胆なもの。

救いとは愛。

ポリアモリーは愛。

愛とは救い。

ポリアモリーとは救い。

抑圧された者をどのように愛しましたか?

ポリアモリーたちを愛しましたか?

どのように愛しましたか?

どのように?

神。

愛。

McKnight: 牧師として、あなたがポリアモリーを支持したことに対してどのような反応を受けましたか?

Hood: 否定的に反応したのは神についての何の知識もない教会のクソッタレどもだけだった。だが言わせてほしい。悪質な者も何人かいた。私を付け回す者たちがいた。異端だと呼ぶ者たちもいた。気持ちが悪いと言ってくる者たちもいた。命を脅かそうとする者たちもいた。そういうことはいくらでも挙げられる。そんな彼らが、愛について何か知っているように聞こえるかい?誓って、ありえない。彼らがいうような戯言には私は耳を傾けない。私は、誰に聞くべきかを知っている。私は神の声を聞く。「私が道であり、真理であり、命である。私を愛しながら、ポリアモリーを罪定めすることはできない。私自身がポリアモリーだからだ。」

McKnight:もっとポジティブな反応は教会界隈からはなかったのですか?

Hood:いいや。

McKnight:教会でポリアモリーがもっと受け入れらるためにどれくらいかかると思いますか?

Hood:全てを犠牲にすることだ。我々は、周縁化された人たちのために自分の命を投げ出すよう召されている。我々は、抑圧された人たちのために自分の命を投げ出すよう召されている。我々は、隣人たちのために自分の命を投げ出すよう召されている。我々は命を投げ出すよう召されているんだ。自分が犠牲にするのがそれ以下のものだったら、どうやって神に従うことができるだろう?ポリアモリーたちと一緒に十字架につけられるのが私の運命ならば、そうなればよい。愛のために命を捨てること以上に価値のある目的はない。

...Jeff Food 博士はバプティスト牧師、神学者でありテキサスで生活し働く活動家。2つの学位号と4つの修士号に加え、テキサスのクリスチャン大学 Brite 神学校でクイアー神学博士号を取得。その研究に加えて、Hood 博士は2006年に、南部バプティスト会議に属する教会で宣教師に叙任された。2009年には 南部バプティスト神学校で神学修士号を取得。19の著作があるなか、最近出版した著書、「The Execution of God (神の処刑)」(Chalice Press )を特に誇りにしている。2016年、博士の著書 The Courage to Be Queer」(クイアーである勇気)は、独立出版社賞の宗教書の部門で三位となった。著作活動に加えて、ダラスモーニングニュース、ハフィントンポスト、フォートワーススターテレグラム、アトランタジャーナルコンスティテューション、ロサンゼルスタイム、WIREDマガジンや、ABC、NBC CBS CNN MSNBC Fox NewsNPR を含む多数のメディアにも頻繁に登場。妻Emilyの夫であり5人の幼い子供たちを持つ。深い魂と「神は我々にクイアーになれと召されている」という信念のもと、Hood 博士は閉ざされた社会にあって、過激な神秘主義的、預言的な声となっている。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - (引用終わり)

・・・・筆者としては、ここまで読む気力のあった読者の方に敬意を表します。

ともあれ、米国のキリスト教界の一角は、今、凄まじい速度で腐敗しつつあることがよくわかります。

あらゆる聖書箇所、神学的洞察を転倒させて、特定の性的志向性を神の名を使って正当化するそのやり方は、しかし、LGBT神学を観察した経験のある筆者には馴染みがあります。

「神は抑圧された者の中にいる」
「教会はすべての人のための場所」
「愛を否定することはできない」

(実際には、神は支配層であろうが貧困層であろうが、悔い改めイエスを信じた人の中にのみ聖霊としてお住まいになります。抑圧されていようがいまいが関係ありません。また、教会はもともとすべての人のための場所でもなんでもなく、性的不道徳を行う者に関して「あなたがたの中から取り除きなさい」(Iコリント5:13)とまでパウロは命じています。「愛」については、ギリシャ語のエロス、フィロス、アガペーといった違いを一切考慮しないという無知はともかく、イエスの「愛」は時として相手の罪や至らない点を指摘するものでもあったという事実を完全に忘れています。文脈を読まずに「愛」という言葉が独り歩きしているのです。)

LGBT神学におけるこれらの常套句がポリアモリーを擁護するためにも使われているという共通項に加え、LGBT神学そのものがポリアモリーに親和的な傾向があることもまた指摘できるでしょう。

実際、日本人のレズビアン「牧師」である堀江有理氏は、つきつめて考えれば「1:1の(同性)カップルがコミットする関係を持つ」という同性パートナーシップ制度さえ、「モノガミーでない関係を排除してしまう」として疑問視されうるという可能性を示唆しています。
www.ritsumei.ac.jp
第21号 『社会システム研究』 2010年9月 37 同性間の〈婚姻〉に関する批判的考察 ― 日本の社会制度の文脈から ―
さらに筆者が気づいた点は、性的革命とそれに続く同性愛の興隆と、教会による同性愛の容認が時代的にリンクしているのと同様、ポリアモリーの社会的認知と教会によるポリアモリーの容認もまたリンクしているということです。
www.dailymail.co.uk
Carl and Kenya Stevens from Asheville, North Carolina, have been married for 22 years and 'open' for 12 - and insist their children are fine with them bringing their lovers into the family home.
この記事では、互いの関係を「開放」し、(自身の子供たちもまた生活している)自分の家に「恋人たち」を住まわせるなどし、12年間ポリアモリー婚を実践しているある夫婦に取材していますが、同時に、「独身者を対象とした2群のサンプルでは5人にひとりがポリアモリーを実践したことがある」とする、2016年米国で行われた調査の結果も示されています。

結局なところプログレッシブ(進歩主義的)な教会は、唯単に自分の頭で考えることを放棄して社会に追随しているに過ぎないように見受けられます。

教会はすべての人のためのもの、と思うなら、なるほど、同性愛者が増えれば同性愛を容認し、ポリアモリーが増えればそれを容認することになるでしょう。じつに単純な話ではないですか。

プログレッシブ(進歩主義)神学を奉ずる、あるいはそれについて違和感を感じていない方々に筆者は警告したい

あなたたちが進んでいる道は「滑りやすい坂道」であって、このままその道を進んでいけば必ず、さらに別の性的志向性を神の名により肯定する人たちが出てくる。

一つのものを解き放つということは、ほかのすべてを解き放つことに繋がります。

文字通り、一夫一妻結婚以外の、「すべて」です。

たとえ時流に乗って同性婚に賛同し「多様性に理解のあるアライ」を気取っていても、ある別の性的志向に反対を唱えたら、それは「排除」「抑圧」につながるということになり、ヘタをするとそのサークルの中で裏切り者と見られてしまうでしょう。極めて不条理に聞こえますが、それが今「本場」米国のプログレッシブ教会で駆使されつつある論法です。

もう、一度そこまでいったら引き返すことができなくなるのでしょう。

本当にそんな道を進みたいのですか?

あなたたちが自分の子供たちの世代に残したいのは、本当にそんな世界なのですか?

「滑りやすい坂道」から戻ってくる人が一人でもいれば、と願ってやみません。

プログレッシブ・キリスト教神学に応答する(5) さらなる最新成果:古代異教崇拝への回帰

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プログレッシブ・キリスト教の水面下での浸透:欧米から日本へ (25)

プログレッシブ・キリスト教神学に応答する(5) 

さらなる"最新成果":古代異教崇拝への回帰

教会で、小学6年から高3までを対象とした「ドラッグ・クイーンコンテスト」

米国アイオワ州にある、 Aimes United Church of Christ という教会で、「ドラッグ・クイーンコンテスト」が開かれました。

イメージ 2

もう一度言います。開催場所は、「教会」です。

ドラッグ・クイーンというと、よく知らない方にご説明すると、男性がキラビヤカな女装をすることです。

イメージ 1

           そういえば昔マッチョ俳優のパトリック・スウェイジやウェズリー
         ・スナイプスなど3人がドラッグクイーンに扮して活躍?する映画があった。
   
さらに、このコンテストは、ハロウィーンにちなんで「児童および青少年」を対象としています。

だから、ローティーンの少年が、ヒラヒラとしたドレスを着て化粧をして歩き回ることを当然ながら想定しているわけです。


www.youtube.com
Read Article on CowgerNation.com: http://cowgernation.com/2015/07/05/nyc-gay-pride-parade-8-year-old-boy-struts-and-twirls-for-homosexuality/ On June 20, 2015, at the New York City Gay Pride Parade, 8 year old Desmond Napoles ...
筆者のFacebookページで以前紹介しましたが、New York Cityでの「ゲイ・プライドマーチ」では8歳の少年が煽情的?なドレスを着て練り歩くさまが見られましたが、

そのような光景が「教会」の中でも展開されるようになったということです。

批判されると「被害者アピール」

そして、当然ながら、この「教会」はSNS上で多数の批判に晒されたようですが。それに対する返答が、これです。

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www.facebook.com
The United Church of Christ has, as a national denomination, long been on the forefront of not only prophetic witness but prophetic action. We have heard God’s call not to be a stiff-necked people or...
ユナイテッドチャーチオブクライストは、全国的教団として、預言的証しだけではなく預言的行動の最前線に立ってきました。私たちは、頑固な人々にならず、偽りの偶像を造らないように、という神の呼びかけを聞きました。従って、私たちは、科学的知識を否定したり、聖書を神の貴重な話としてではなく神そのものであるかのように崇拝しようとする誘惑に抗います。私たちの信仰は、聖典、祈り、そしてキリスト者コミュニティの中での人生が交差するところに見いだされるのです。

最近、私たちとともにキリスト者家族樹の他の枝に属する信者たちが、私たちのLGBTQIA+の若者たちとその友人たちを歓迎する、開放的で支援的な立場とハロウィーンイベントに批判的です。結果は、集中砲火のようなオンラインメッセージとFacebook投稿でしたが、その中には単に好奇心に基づく物のほか、明らかないじめも含まれていました。

プロテスタント宗教改革の500周年にあたる記念の夜は、キリスト教は一種類しかないわけではないことを思い出させます。イエスキリストの宣教、死、そして神秘の後数日、数か月後でも、その何世紀も後でもそうでした。Ames のユナイテッドチャーチオブクライストでは、人類の性自認と性的表現の多様性に関する私たちの確信は、偏狭さではなく愛に基づく真実である「tehom [訳注: ヘブライ語の「深遠」」とともに神から寄せられた創造への招待の素晴らしい結果のほんの一例です。

私たちの教会の信仰表現と連帯してくださる方々へのお願いは、オンラインポスター、いじめ、荒らしと関わらないように、ということです。そのような誘惑はわかりますが、サイバースペースにおいてはイエスがするようにと召された、顔と顔を合わせた、心と心とを合わせた対話の可能性はありません。

あなたがもし動かされているなら、どうかこの教会のFacebook ページに高いレーティングを与え、私たちの掲示板に独立した投稿をし、また10月29日日曜日10:30に私たちと礼拝をともにしてください。この話題は、神のために神殿を建てることは、なぜ神とともにする霊的な旅を避けてしまうことになるのかを表しています。おそらくこここそが苦悩が根差している場所なのでしょう。Ames のユナイテッドチャーチオブクライストは、伝統、恐れ、無知という神殿よりも神を選びます。 

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少年たちにヒラヒラとしたドレスを着せてメークをさせるのが「預言的行動」?(←・・・すみません、ここって・・・・笑っていいのかな?)

おそらく、日ごろからこういうことへの文句を言ってくる(それゆえ彼らとしては快く思っていない)福音派聖書原理主義者?に対しての含意があるのでしょうが、「科学的知識を否定」し、「聖書を神そのものであるかのように崇拝」しているある人たちと違い、自分たちは「偽りの偶像」を作ったり「伝統という神殿」を拝むことはしない、とあてこすっています。(おお、これぞプログレッシブ(進歩主義)神学の典型的言説。)

そして、批判を受けるとすぐさま「いじめだ!」「偏狭(bigot)!」と叫んで被害者アピール。

あまりにもお定まり過ぎる反応に筆者としては感心してしまいますが、感心ばかりもしていられません。

進歩?それとも古代異教礼拝への回帰?

プログレッシブというと日本語では「進歩」ですが、筆者としてはこのような事象はむしろ「古代異教礼拝」への回帰のように見えてしまいます。

というのも、「服装倒錯」は、古代カナンの地で見られた偶像礼拝でも、初代教会の周囲に存在していたギリシャ・ローマ文化圏での異教礼拝でもよく見られた現象だったからです。

これら偶像のうちのいくつかは両方の性を行き来できると考えられており、その信者たちも自らが崇拝する神を真似ることがありました。

なかでも「イシュタール」という女神は両性具有の性質を持っており、その信者たちや神官たちもまた女装して神事を行ったことが記録されています。また、ある古代詩では、この女神は「男を女に変身させる」と記述されているとか

ともあれ、この教会の指導者たちは、「性的表現の多様性は神の創造の結果」と考えたいようですが、

聖書の記述やその歴史的背景を勘案して考えると、それは、たぶん別の神様ということになるでしょう。

なにしろ、「人を男と女に造られた」聖書の神は、「性的自認」についても「性的表現の多様性」についても何も語っていないのですから。聖書の中でたった一箇所でも、「イスラエルの神」あるいはイエスご自身が、MTFやFTMなどの性的自認や性的表現の多様性を神が造りだしたなどと示唆している部分があるでしょうか?

むしろ、歴史的に考えたら、性的表現の"多様性"は常に異教由来のものであって、聖書の神の民は一貫してそのようなものから離れるようにと言われているのです。

プログレッシブ神学においては、より「進歩」していることが尊ばれるために、立ち止まることなく「進んで」いく傾向にあります。

そこで「同性婚」が称揚されるなどというのは、まだ序の口というわけです。

さらにはポリアモリーという名の乱婚を支持する人たちが出始め、挙句の果てには少年たちを女装させ化粧させて教会の中でその「美」を競わせるといった事例まで出現したわけです。

つまり、プログレッシブ主義は、「進んだ」ようでいて、一周回ってキリスト教出現以前の世界に逆戻りしつつあるのではないでしょうか。

人間のやることというのは、大して進歩することはない。日の下に新しいものは一つもない、とはよく言ったものです。

神学ハイジャックと「多様性」の名による反対者の排除が進んでいく

旧約聖書には、大祭司エホヤダの助けによりアタルヤという邪悪な女王から政権を取り戻したヨアシュという少年王が出てきます。

しかし、ヨアシュは後見人だったエホヤダの死後、イスラエルの神から離れ、それにつれて人々は偶像の神々に仕えるようになります。

それを憂えたエホヤダの息子ザカリヤは人々に警告しましたが、殺害されてしまいました。(II歴24, etc.)

まさに、当時でいうところの「多様性」に反対したから抹殺された、という風に筆者には見えます。

現代でも、「性の多様性」に反対する者は巨額の罰金を課せられたり、過去の功績に関わらず職を追われるなど、ウムをいわさず「粛清」される事態が米国では目立ちます。

これらのものを社会に導入したがる人たちは、批判者に対して異様なまでの敵愾心を燃やすのが特徴ですが、プログレッシブ神学界隈でも同じことがいえそうだというのが、「ポリアモリー」と「ドラッグクイーン」という最近のプログレッシブの「成果」を観察してわかりました。

ポリアモリーのJeff Food 牧師は、批判者を「糞っ垂れども」と呼び、Ames United Church of Christ は「聖書崇拝?」への攻撃と 「被害者アピール」に余念がありません。

もしも人間が古代からの習癖を繰り返すものと仮定するならば、

これらの人たちがやがて聖書に堅くつくキリスト者たちを「偏狭」「レイシスト」「憎悪者」などといってキリスト教界から、そして社会から排除しようとするのもそう遠い話ではないでしょう。

しかし、その攻撃の手始めは、「神学のハイジャック」である、と筆者は見ています。

いつのまにか、聖書の神が性的多様性を造りだしたことにしてしまい、それに反対するのは「聖書という神ならぬ偶像への偶像礼拝だ」と攻撃する。

いつのまにか、三位一体はポリアモリーの関係だということにしてしまい、ポリアモリーを受け入れない者はイエスを受け入れないのと同じだ、と攻撃する。

これらのデタラメな神学的攻撃は、今のところ周縁的なものに留まっているように見受けられますが、

ゲイ神学、LGBTQ神学がメインストリームにヒタヒタと近寄っている現状がある以上、見くびることはできないような気がします。

いずれにせよ、こういったものに決然と立ち向かえないようであれば、もはや米国のキリスト教界は終わりといっていいでしょう。

かの国にいるであろう忠実な残りの者たちが健闘することを祈るとともに、日本にこのようなものを絶対持ち込ませないよう、注意していきたいと思います。

トランスジェンダリズム運動の本質:強制支配と混乱の王国

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今回は、純粋に「クリスチャン事情」とは言えない内容になりますが、従前の「プログレッシブ批判」のシリーズにも多少なりとも関連があり、また今後欧米と日本の社会でどのようなことが起きるかについての参考として掲載したいと思います。

「人権問題」に見せかけた別の何か

まずはこちらのニュースの引用をどうぞ。

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性別変更に「手術は必須」 家裁支部判断、当事者は困惑

www.asahi.com
戸籍上の性別を変えるのに「不妊手術」を義務づけた性同一性障害特例法は違憲だと訴え、女性から男性への性別変更を ...

戸籍上の性別を変えるのに「不妊手術」を義務づけた性同一性障害特例法は違憲だと訴え、女性から男性への性別変更を求めた家事審判で、岡山家裁津山支部(柴田憲史裁判官)は「手術要件は合憲」と判断し、申し立てを却下した。6日付。申立人側は国家賠償訴訟も視野に、広島高裁岡山支部に即時抗告した。

 申し立てたのは、女性の体で生まれ、男性として生きるトランスジェンダーの臼井崇来人(たかきーと)さん(43)=岡山県新庄村。

 臼井さんは39歳で性同一性障害の診断を受け、その後、戸籍上の名前も男性的に変えた。ホルモン投与で声が低くなり、骨格筋が発達するなど男性のような体つきになった。ただ、「本質は手術のあるなしではなく、個人としてどう生きたいかではないか」との思いもあり、卵巣摘出などの手術を受けてこなかった。

 昨年12月、性別変更を求める家事審判を津山支部に起こした。審判では、性別変更の要件の一つに「生殖腺や生殖機能がないこと」を定める特例法について、「身体に著しいダメージを伴う手術を要求するのは、自己決定権を保障した憲法13条に違反しており、無効だ」と主張した。

 これに対して、決定は「(特例法の手術要件は)元の性別の生殖能力が残っているのは相当ではないことから定められたと解される」と指摘。「憲法13条に違反するほど不合理な規定ということはできない」と結論づけた。

 臼井さんは昨年春から、パートナーの山本幸(みゆき)さん(39)と幸さんの長男(6)の家族3人で暮らす。性別を男性に変え、幸さんと異性カップルとして結婚したいと望む。7日、決定文書を受け取り、「当事者にも多様性があり、特例法ではカバーし切れない。手術をして後悔したという声も聞く。法が現実とかけ離れていると感じるが、司法の壁は厚い」と語った。

・・・・・・・・

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一見、なにか「性的少数者の人権」問題であるかのように見えますが、よく考えるとおかしくないでしょうか。

「女性の体で生まれ、男性として生きる」

「戸籍上の名前も男性的に変えた。ホルモン投与で声が低くなり、骨格筋が発達するなど男性のような体つきになった」

「「本質は手術のあるなしではなく、個人としてどう生きたいかではないか」との思いもあり、卵巣摘出などの手術を受けてこなかった。」

このこと自体が、「男性の心を持った女性や、女性の心を持った男性など(少なくとも言われているほどの数は)存在しない」ということを示唆していると思います。

このような主張をする人は、「男性になりたい」と口では言いつつも別に本当には女性であることをやめたいとは思っていないわけですし、また、本当はやめられないことを本質的によく分かっているのでしょう。

「手術をして後悔したという声も聞く。」というところにそれが如実に現れています。そういった例を聞き及んで躊躇しているなら、女性のままでいるべきです。

本当に男性になりたいなら、手術を後悔するかも、という心理が働くというのも非常に不思議な話です。心が男性だったら、一体どうやって子宮や卵巣があることと折り合いをつけるのでしょう?

従って、この話は、その人が「自分が何になりたいかどうか」ということよりも、他人に対して「私のことはこう考えろ」と「強要・支配」したい、ということに関係しています。

個人として自由に生きたいというならいいでしょう。しかし、それでいて、ご当人のことを見た周囲の人間が「あれ、この人って男性かな?いやいや、子宮と卵巣があるならやはり女性だろう」と客観的事実に基づいて自由に評価することは決して許さず「私のことは男性だと思え」と強制・強要したいのです。

これを不条理と言わず何というでしょうか?

もし自分が世間の型にはまらず自由に生きたいというなら、周囲の人間がその人をどう評価するかも自由に任せなければ、筋が通りません。

「周囲が私のことをなんと言おうが関係ない。私は私らしく生きる。」

こういう人がいたら、これはこれで一つの生き方でしょう。たとえば、個性派で知られる歌手の美輪明宏さんや、タレントのはるな愛さんが、自分を男性だと呼ぶ人間に対し訴訟を起こした話など今まで聞いたことがありません。

だから、冒頭のニュースは「性的少数者の生きづらさ」の問題というより、「性的少数者による多数派に対する支配と強制」の問題です。

「外見は男性のようになっても子宮と卵巣を備えていたい」というならそれはもちろん個人の権利です。しかし、それならば、その状態で社会一般に自分を男性と認めてほしいというのは諦めるべきです。

(「転換手術が肉体的に辛い」という話だけだったらば誰しも同意するところでしょうが、それだったら既存のものよりももっと低浸襲的な術式を専門医とともに考えていくべきでしょう。)

それなのに女性としての生殖能力を完全に温存したまま「自分は男性だ」というのがいかに不条理か、その逆のパターンを考えればよくわかります。

たとえば、こんな人がいるとします。

「男性の体で生まれ、女性として生きる。」「戸籍上の名前も女性的に変えた。ホルモン投与で声が高くなり、丸みを帯びた女性のような体つきになった」

「しかし、「本質は手術のあるなしではないく、個人としてどう行きたいかではないか」との思いもあり、陰茎や睾丸などの摘出手術を受けてこなかった。」

「私は陰茎も睾丸も備えています。でも本質は、個人としてどう生きたいかの問題なので、女性として認めてほしい」

これって、「多様性」ですか?

もしも、この人が

「私は女性だから女子トイレに入らせろ。女子シャワー室にも。でなければ人権侵害だ。」

といい出したらどうしますか?

これを認めないのは「不寛容」でしょうか?

いえ、筆者にしてみると、逆に、少数派による主観の多数派への押し付け」、さらに言うなら「少数派による多数派への強制支配」だと思います。

こういうと穏やかではありませんが、どういいつくろっても「強制支配」です。

なぜなら、「自分は女性のように生きたいが陰茎と睾丸は備えたままでいたい」という自由があるならば、

その一方で「私はそんな人は女性とは絶対認めないし、そんな人物と絶対に同じトイレ・シャワーには入りたくない」という女性の側の自由もあるはずなのに、

それを認めず、一方の見方を強要するからです。

客観的事実に基づいた自由な考え方を他者に許さず、その内面の認識までも「支配」しようとしているのです。

性的少数派ファシストによる「支配の論理」

日本においては、こういった活動はまだ本格化していないので、詳しくない方にはいまいちわかりにくいかも知れませんので、海外の例を引いて説明しましょう。

「お前たちは、私のことを○○だと思え」

という意味での、「支配」を狙った運動は、欧米の一部界隈ではファシスト的といっていいレベルまで達しています。

たとえばニューヨーク市では奇妙な法令が施行され話題になりました。
www.fox5ny.com
New York City has issued guidelines to employers and landlords on the correct way to refer to a transgender woman or transgender man. If the rules are not followed ...
この法令によると、雇用主や家主は、トランシジェンダー女性や男性に対して、「正確な」呼び方をしなければならないと定め、違反したら巨額の罰金を課するというのです。違反にあたる行為としては以下のようなものが挙げられています。

「ジェンダーのステレオタイプに合致しないという理由で、個人の望む名前、代名詞、あるいは肩書きを使うことを拒絶すること。例えば、外見が伝統的なジェンダーをベースとした男らしさのステレオタイプに合っているからといって、女性をミスターと呼ぶこと。」

つまり、ヒゲモジャ、マッチョの人でも、「わたし女よ」と言ったら、それをミスターと呼ぶのは違反です

「氏名変更にかかる法廷命令の取得や、当該の名前にかかる身分証明の提出を、当人によるかかる名前の使用の条件とすること。例えば、法令の対象となる者は、トランスジェンダー女性を、彼女の望む名前、ジェーン、と呼ぶことを、彼女の身分証明書にジョンと記載してあるからといって、拒絶してはならない。」

つまり、身分証明者さえもカンケーない。「アタシがジェーンって呼べっていったらジェーンなの!さもないと罰金よ!」

「個人に対し、当人が望む名前、代名詞、あるいは肩書きを使うにあたって、その医療歴に関する情報や特定の医療施術を行ったことの証明を求めること。」

つまり、見るからに男でも、「アタシ女ったら女よ!」「いや、でも、どうなんでしょう、その、あなた手術のほうは・・・・」→これ言ったら罰金。

「私は子宮も卵巣も備えている。だが、本質は手術のあるなしではなく、個人としてどう生きたいかだ。だけどお前たちは私のことを男性だと思え。でないと許さん。」

「私は陰茎も睾丸も備えている。だが、本質は手術のあるなしではなく、個人としてどう生きたいかだ。だけどお前たちは私のことを女性だと思え。でないと許さん。」

「貴様、もし私のことを「ミスター」/「ミス」と間違えて呼んでみろ、唯じゃおかない。罰金を課してやる」

これが、本場欧米、最新のトランスジェンダリズム運動です。

外見も関係ないし、身分証明書も関係ない。医学的証明を求めてさえもいけない。

トランス当事者に対しては、周囲の人間は、その外見や身体的特徴から相手を自由に評価することをしてもいけないし、相手に対し自らを証明することを求めてもいけない。

これほどひどい「強要・支配」があるでしょうか。

現出する「混乱の王国」

欧米においてLGBTロビーの政治力の大きさ、手法の洗練性、組織動員力は、日本のそれとは桁違いに大きいです。だから、多くの自治体、企業や教育機関は簡単に圧力に屈してしまい、上述のような法令がまかりとおってしまうものと推察されます。

いっぽう、引用元ニュースによれば、日本の司法としては以下のような見解が主流のようです。

「(特例法の手術要件は)元の性別の生殖能力が残っているのは相当ではないことから定められたと解される」

「法務省によると、不妊手術が要件とされたのは「元の性別の生殖機能により子が生まれれば、様々な混乱や問題を生じることになりかねない」などの理由からだ」

筆者としてはしごく全うな見解だと考えますが、欧米では、多分このような見方は「偏狭」「不寛容」とされるでしょう。

で、すべての「人権に配慮」して欧米なみになったらどのような世の中になるか、一例をとくとご覧ください。(元記事にはアップ写真があります。職場閲覧注意。)
time.com
My brother Evan was born female. He came out as transgender 16 years ago but never stopped wanting to have a baby. This spring he gave birth to his first child
TIME誌掲載のこの記事によれば、写真の「Evan」氏は女性として生まれ、16年前にトランスジェンダー(FTM:女性から男性へのトランスジェンダー)としてカムアウトしましたが、赤ちゃんを欲しいと思うのをやめたことはありませんでした。そして最近かねてからの願望どおり赤ちゃんを授かり出産。上記写真のとおりお子さんを母乳で育てているそうです。

では、この人は「トランスジェンダー」なのでしょうか?いいえ、どう考えても女性としか言いようがありません。出産をあきらめていないのに「自分は男だ」と言い張るというのが果たして「トランスジェンダー」と言えるでしょうか?

この事例と、上記のNYCでの過酷な法律とがあいまって、こんなこと(↓)が将来起きないでしょうか。仮想シナリオを寸劇風に書きました。

-----------------

ある企業の面接

雇用主A:ええと、あなたは・・男性?ですね?

求職者B:はい、そうです。

雇用主A:ブツブツ・・(そう書類に書いてあるけどちょっと女性っぽいな・・・どっちだろう?)

求職者B:なにか?

雇用主A:え?いや、何でも。(確かめようにも診断書提出しろとかいったら罰金だしな・・・)で、いつから働けるんでしょう?

求職者B:明日からでも大丈夫です。

雇用主A:で、ええ~っと、ミスター?・・・B?(ここで間違えても罰金だからな、気をつけなきゃ・・・・)、じゃあ明日から6ヶ月間試用期間で、それで問題なければ正式雇用ってことでよろしいでしょうか?

求職者B:はい、よろしくおねがいします。

半年後

社員B:A社長、ご相談が。

雇用主A: なんでしょう?

社員B:実は私、妊娠したみたいなんです。出産・育児休業をとりたいんですが。

雇用主A: は・・・・・・・・はああああ?

社員B:いけませんか?でも法律的には問題ないはずでしょう?

雇用主A: で。。でも、キミ面接のとき男性だって・・・・

社員B:はい、でもそれは私の性自認が男性ということで、実は子宮も卵巣も持っているんです。本質は手術のあるなしではなく、個人としてどう生きたいかではないか、だと思うんです。だから、私は男性ですけど、自分で子供を生みたいとずっと願っていたんです。

雇用主A: ・・・・・・・・(絶句)

社員B:あ、あとこのたび、妻(女性)と入籍しました。就業規則には確か5日間の結婚休暇と祝い金が支給されるってありましたけど。あ、それから出産から一年後の産休復帰の後、勤務時間は9時から3時ということでお願いしたいんです。私の場合も認められますよね?

雇用主A: は、はあ、そ、そりゃま、当然そうですね・・わかりました。(え?男だけど妊娠・出産?そいで自分はで産休とりつつ女性と結婚?も~うわけわかんねぇ~!!!

---------------11/2修正:ご指摘がありましたので一部寸劇内容を修正しております)

このように、男性と自認しつつ子宮と卵巣を温存したFTMが、突然思い出したように「母性」を発揮して出産するというのは、周囲にとって非常に混乱するし、迷惑を蒙る人も出るでしょう。

ただ、もっとひどいのは、女性と自認しつつ陰茎と睾丸を温存したMTF(男性から女性へのトランスジェンダー)が、突然思い出したように、「男らしさ」を発揮した場合です。

いったいどうなるでしょうか?

その事例を、以前このブログでも掲載しましたが、再掲します。
blogs.yahoo.co.jp
「トランスジェンダー」戦争勃発 5/17追記記事を末尾に追加しました。 現在、アメリカは「トランスジェンダー」 (自分の ...


以下のサイトは、女性を装った性犯罪者の危険性を訴え、性犯罪者が「トランスジェンダー」だと言い張った例や、服装倒錯者が犯行に及んだ例を多数集めています。
 
 
あまりにもコンテンツが多いので、ほんの一例のみを訳します。
 
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Christopher Hambrookという男は、トランスジェンダーを装い、ジェシカと名乗って2つの女性用[ホームレス]シェルターに入り込み各所で女性に対するのぞきや性的攻撃を働いた。被害者は、それぞれ、ドメスティックバイオレンスから逃げてきた女性、および聾者でホームレスの女性だった。Hambrookは、それ以前に5歳の少女を性的に虐待し、また27歳の女性を強姦し服役した前歴があった。
 
Noel Crompton Hallは、オーストラリアの刑務所の服役囚であり、ヒッチハイカーを殺した罪で服役していたが、収監後すぐ「自分は女性だ」と主張し、女性刑務所への移送を要求。当局がこれに合意し、1999年に女性刑務所に送ったところ、3ヶ月後には同房者への強姦を働き、また多数の女性受刑者たちが性的攻撃の被害を訴えた。さらには、女性受刑者の一人を妊娠させたという。

----------(11/2修正:読み直してみると、「MTFトランスになった」→「性犯罪を犯した」というパターンには厳密には合致しない事例も入っていましたので、それは削除しました。他のいろいろな事例を知りたいかたはリンク先の過去記事でどうぞ)

まさに、「混乱の王国」です。

日本に住んでいると、あたかも欧米が人権に配慮したステキな誰もが住みやすいステキな社会であるかのように思いがちです。

(確かに、そのような面もあります。筆者は随分昔に欧州で無銭旅行したときに、ある国の場末のキタナイゲームセンターにまで、車椅子の人がすべてのゲーム機を楽しめるようにとリフトが設置されているのを見て驚いたことがあります。)

しかしその反面で、男性が自分は女だと言い、女が自分は男だといい、

また自分は男だと一度は言った女が突然妊娠・出産し、

自分は女だと一度は言った男が突然・・・・

まあ、しまいまでは言いません。

でも、考えてみてください。こんな社会が良い社会でしょうか?自分の子供たちを住まわせたい社会でしょうか?

そして、あろうことかLGBT神学、クイア神学、プログレッシブ神学はこのような社会を推進することが神の御心だと嘯いているのです。

聖書解釈や、人権擁護以前の話として、論理が破綻しているのではないでしょうか。

この波は確実に日本にも近づいています。あろうことか日本キリスト教界がそのような運動の先導者にならないことを願うばかりです。

ブログ名称を変更します。

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突然ですが、ブログ名称を変更します。

理由は単純なのですが、「日本ではほとんど・・・」とネット検索で打ち込むのにすごく手間を感じるからです(雑な理由。(苦笑))

同時並行でやっている  Facebook ページと合わせて、本ブログも

Christian News Watch

と名称変更しようと思います。

まず、新旧名称を混ぜ込んだようなタイトルとしておき、しばらくしたら新名称に完全に切り替えます。

今後とも、なにとぞよろしくお願いします。m(_ _)m

トランスジェンダリズム運動の本質(2):君臨支配のメカニズムと「性別のない社会」

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トランスジェンダリズム運動の本質(2):君臨支配のメカニズムと「性別のない社会」

今回も、キリスト教とあまり直接関係していませんが、前回の続きとして投稿したいと思います。
blogs.yahoo.co.jp
今回は、純粋に「クリスチャン事情」とは言えない内容になりますが、従前の「プログレッシブ批判」のシリーズにも多少 ...

表面的には「人権問題」のように見える「トランスジェンダー運動」。

しかし、その様相を探っていくと、全く別のものが見えてきます。

前回は、戸籍上の性別の変更には元の性別の生殖機能を除去する手術を必須とした法律をめぐる訴訟の記事を取り上げましたが、

その訴訟当時者である、FTM(女性として生まれたが男性としての性自認を持つ)トランスジェンダー者の方の主張を検討するにつれ、

「自分は男性として生きたい」

「だが子宮や卵巣は保持したままでいたい」

「それでも社会には自分のことを男性と認めてほしい」

という矛盾した内容が浮き彫りになりました。

(これを逆に考え、「自分は女性として生きたい、だが男性機能は残したままでいたい、それでも社会には自分のことを女性と認めてほしい」という人がいたら、それがいかに不条理なことか、わかろうというものです。)

つまり、この案件では、その人が「自分が何になりたいかどうか」ということよりも、他人が自分を客観的根拠に基づいて自由に評価することを許さず、かえって「私のことはこう考えろ」と周囲に対して「強要・支配」したい、という願望が伺われます。

自分が客観的にどのような特徴をそなえているかに関わらず、周囲の他者に対して自分の自認する性別に沿った扱いを強要する。

そんなトランス運動の結実として、ニューヨーク市では雇用主や家主がトランスジェンダー者を本人の望まない代名詞や名前で呼んだ場合巨額の罰金を課する立法をしています。

今回は、それに類似したイギリスからのニュースです。ある教師が「ミスジェンダリング(トランスジェンダー者を本人の性自認とは違う呼び方をすること)」により職を追われる危機にまで至っています。

イギリス:トランスジェンダー者への「不敬罪」施行?
www.dailymail.co.uk
Joshua Sutcliffe, 27, who teaches maths at a state secondary school in Oxfordshire, said ‘Well done girls’ to the teenager and a friend when he spotted them working hard.

キリスト教徒であり、中学の数学教師として勤務する Joshua Sutcliffe氏、27歳は、ある授業で、少女たちと、FTMトランスジェンダー(女性として生まれながら男性の性自認を持つこと)の生徒からなるグループに対して「well done, girls(お嬢さんたち、よくやった)」と声をかけたところ、トランスジェンダー生徒から指摘を受け、謝罪したうえ呼び方を訂正しました。

しかし6週間後、当該トランスジェンダー生徒の母親が苦情を提出したことで、 Sutcliffe氏は停職処分となり、現在は正式の懲戒を前提とした聴聞の対象となっています。

さらに、同氏は、当該トランスジェンダー生徒を「he」または「him」と呼ぶことなく、あくまで名前で呼んでいるため、これによって「平等方針」に違反しているとの苦情にも直面しています。

彼は学校から、トランスジェンダー生徒をどう呼ぶかについて何の指示も受けていなかったが、他の教師たちと同じように、ファーストネームで呼ぶことをならいとしていました。

また、キリスト教徒として、当該生徒を「he」または「him」と呼ぶことを避けつつ、ファーストネームで呼ぶことは学校の行動規範や平等方針とも整合がとれていると考えており、それまでは何の問題も生じていなかったといいました。

Sutcliffe氏は「ミスジェンダリング」のほか、当該トランスジェンダー生徒から、素行の不良を理由とした過度な回数の居残りをさせられた、と苦情を受けましたが、これは調査の過程で根拠のない訴えと判明。

なお、牧師としての肩書きをも持つSutcliffe氏には、授業中に宗教の話題を不適切に持ち出したとの苦情も寄せられていますが、実際には一般的話題として宗教改革500周年の話題を持ち出しただけ。また、放課後に自主的な聖書勉強会を開いたことがありますが、生徒の質問に対して聖書的には結婚は男女のものであると回答したことで「ホモフォビア」の疑いをかけられ中止に追い込まれたとのこと。

同氏は、上司による調査に対し、個人的には女性として生まれた人間を「girl」と呼ぶことは間違っていないと信じているが、プロフェッショナルとしては公にそのようなことは決してしない、と語っていると伝えられています。

・・・・・・・

たった1度「呼び方をうっかり間違えた」だけで、すぐに謝って訂正したとしても、懲戒の対象となる。もしかすると首かもしれない。

以前同じイギリスで、「結婚は男女のもの」と発言するだけで学校を追われる事例をご紹介しましたが、事態はさらに悪いほうに進んでいると見受けられます。

そう、まるで、「トランスジェンダー者への不敬罪」が施行されているかのような状態なのです。

ブラックボックス化による統制支配と論理すり替えが生む「言葉狩り」

ここまでトランス活動アジェンダが独裁者のごとく君臨し、その方針に少しでも適合しない者が周縁に追いやられるような風潮が出てきたのはなぜなのか。

筆者が見るところここにはある戦略が働いているのです。

それは、

1) 性的少数者の「ブラックボックス化」

2) 主観的申し立ての「ドグマ」化

3)  社会一般の慣行の改変要求

簡潔に説明するのは難しいのですが、こういうことです。

1) 性的少数者の「ブラックボックス化」:持続的に複雑化する「セクマイ」の概念

性的少数者の性的志向と性的自認や、そこから来る、社会生活上の不快感は、多くの場合外部から客観的に検証・測定することは不可能です。

さらに、その苦情は、「自分を女性(男性)と呼ばないでほしい」から始まり、「選挙に行ったとき投票用紙がピンクなので傷つく」「結婚や恋愛に関する話を振らないでほしい」といった申し立てまで多岐にわたります。

そもそも、性的少数者運動は、近年まで「レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダー」の頭文字をとってLGBT運動と呼ばれていたのが、じつはこの呼称は時代遅れになりつつあります。

網羅的なものではありませんが、呼称がどのように変遷してきているかを以下に例示します。

LGBTQ(レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダー・クイアー[風変わりな・奇妙なという意味])

LGBTQA(レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダー・クイアー・エイセクシュアル[無性愛者という意味])

LGBTTQQIAAP(レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダー・トランスセクシャル[トランスジェンダーが「性自認」のみを変更し身体的性別は変えないのに対し、トランスセクシャルは身体の性別も手術等によって変更する]・クイアー・クエスチョニング[自分の性に疑問を持つ人]・インターセックス[両性具有]・エイセクシャル・アライズ[性的多数者だが性的少数者の権利運動に理解があり、支援しようとする人]・パンセクシャル[全性愛:あらゆる種類の人々に性的興味を抱きうる人])

ここで注目すべきなのは、既に欧米では「「性自認」のみを変更し身体的性別は変えない」という概念が次第に受容されつつあることです。

つまり、トランスジェンダー者とは、日本人が一般的に考えるような、ホルモン療法と手術により外見的に別の性に見えるようにしている人だけを指すのではもはやなく、

自分の申し立ていかんによって、なんら医学的処置を経ることなく、男から女へ、あるいは女から男へと、本人の観念的なレベルでの決意のみによって、移行することができるということです。

また、最近ではさらに「ジェンダーフルイド(gender fluid:性的自認が流動していく状態)」という新語さえ提言されています。

つまり本人が、今日私は男だと言っていても明日は女かもしれない、というのです。

このように、性的少数者のカテゴリ自体が際限なく増え、複雑化するとともに、第三者から客観的に判別することも困難を極めるようになってきている状況です。

まさしく、多数派にしてみれば、

「いったいセクマイってなんなの?」
「どんな人がセクマイなの?」
「どう見えるの?どう振舞うの?どう感じるの?」

といった疑問が、どれほど説明を受けても解決することなく、むしろ疑問が広がっていくばかりなのです。

2) 主観的申し立ての「ドグマ」化:「絶対に、絶対に許せない」

さて、そこで、当事者たちの一部から、「私はこういうことをされると傷つく」という申し立てが出てきます。

人によって感受性はさまざまですから、自分の性的志向や性自認に沿わないある扱いを受けたことで性的少数者本人が傷ついたということじたいは、たぶん事実なのでしょう。

しかし、それが本当に、社会生活が困難になるほど不利益なのか、本人の主観以外には何一つ証拠がありません。ましてや、これらの人々が誰一人として傷つかないように配慮するなど無理な注文というものです。

(セクマイ当事者の中には、「日本には差別などないし自分はセクマイだが世間で言われるような困難などほとんど遭ったことがない」と主張する方もおられます。それで、上記のような「傷ついた」という申し立てが真に検討に値するものなのか、改めて問われるわけですが、残念ながら「自分は保護などされずとも十分生きていけている」という当事者の声は表に出てくることはほとんどありません。)

しかし、それでも、かかる性的少数者の申し立ては、「その扱いはなんとしてでも我慢ができない。(社会全体が)それをなくすように変わるべき」という、一種のドグマ的主張になっていくのです。

たとえどんな小さなことでも、「我慢して乗り越える」「寛容に見過す」という発想がそこには皆無なのです。あらゆる犠牲を払ってでも(払わせてでも)その現状を変えるというのが運動の絶対目標なのです。

先に挙げたイギリスの学校での例でいえば、相手が一度だけうっかり間違えたのを、謝罪し訂正しても絶対に許せない、というところに、それが如実に現れています。

3)  社会一般の慣行の改変要求:「性別のない社会へ」

それらの要求が、「自分をこのように呼んでほしい」ということだけに留まるなら、傷付けないように対応していこうという機運が生まれるのはまだ理解できます。(筆者は個人的には、すべてに対応するのは現実的ではないと考えていますが。)

しかし、ここで運動の論理がまた一つ転倒します。

LGBT(特に、トランス)運動は、「性的少数者本人がが望むような扱いを受ける」というところから、「社会一般の慣行」を改変する運動にいつのまにか発展しいくのです。

つまり、人がトランスやセクマイ個人をどう呼ぶかというところに留まらず、「男女」を前提とした用語自体、世間一般で使うことをやめろという話になるのです

ばかばかしい、そんなことあるわけない・・・って?

いいえ、大いにあります。というか、現にいまそういうことが世界中で行われているのです。

例えば、デンマークは国連に対し「妊娠した女性」という言葉を使用することをやめるよう提案しました。トランスジェンダー男性への差別と受け止められる、という懸念からです。
twitter.com
“デンマークは国連人権員会に対し、「妊娠した女性」「妊婦」という表現は、トランスジェンダーの男性を差別しており使用すべきでないと提案しました。 https://t.co/aAZmFxUg6j
つまり、トランスジェンダー男性にしてみれば、「妊娠した女性」という言葉が周囲で話されているだけで「傷つく」ので、それを「なくすよう社会が変われ」という前提なのです。

また、日本でも報じられたところでは、ニューヨークの地下鉄では「レディース・アンド・ジェントルメン」という呼びかけをアナウンスで用いることを禁止することとしました。

オーストラリアのある大学では「ミスター」「ミス」といった呼称や、「スポーツマン的(sportsmanlike)」といった言語を禁止


米国オハイオ州では、州の最高裁が、2015年の連邦最高裁による同性婚の合法化決定にあわせ、結婚、離婚、親権、養子縁組などに関する決定や書類から、「夫」「妻」「父」「母」といった用語すべてを削除することを決定
www.gospelherald.com
Ohio Supreme Court justices carried out a controversial decision Tuesday to stop using gender-specific terms, such as "husband," "wife," "father" and "mother," on all ...
同カリフォルニア州では、州知事が「州法から"夫""妻"といった用語を削除する法案」に署名。
www.foxnews.com
The terms “husband” and “wife” have been deleted from California’s marriage law under a bill signed into law Monday by Gov. Jerry Brown. The ...
再びイギリスに戻れば、なんと同国の国家統計局は、次期国勢調査において、「トランスジェンダー者への差別を避けるため男女の別の記入」を求めない、という提案をしており、物議を醸しています。
「性的少数者でも生きやすい社会」を作ろうと思って、今度は、性別の違いを前提とした社会自体を「ないもの」としようとしているわけです。

しかし、これらの現象に通低する原則は、筆者の私見では、以下のようなものです。

それは、「性的少数者のことなど多数派にはわからない」という観念を逆手にとり、主観的な感情のみによって「このようなことをされると傷つく」→「だから禁止しろ」という要求を押し通すのです。

それを貫徹することが一度できてしまえば、もはや形勢は決まりです。

性的多数者である周囲の人間は、外部からはうかがい知れない性的少数者の謎めいた世界の「地雷」を踏むことで彼らの「感情を傷つけて」しまわないためにはどうすればいいか、右往左往するようになります。

最初は、「私のことは男(女)と呼べ」という要求に対して、「わかりました、ではそうします」と寛容に対応していたとしても、

やがて、個別のセクマイ当事者やトランスジェンダー者の要求に対して対応するだけでは足りなくなり、

「レディースアンドジェンドルメンという呼びかけを一般公衆に対してするな!」「ミスター・ミスという肩書きを廃止せよ!」「そもそも「夫」「妻」といった言葉を使うのはおかしい!」という流れになり、

最後には「「妊娠した女性」という言葉を使うのは差別だ」という、生物学的にみてどう考えても破綻している議論がまかりとおってしまうのです。

結局、トランスロビーの言うがままに、どんな不条理な要求に対しても従順にならざるを得なくなるのです。

トランス運動のさらなる征服地は・・・・

しかし、LGBT運動の目標は「性別のない呼称、法律、社会制度」だけではありません。

その運動が向かう先は、「幼児教育」にあります。

次回は、アメリカやイギリスで展開されている、日本では想像もつかないような「トランス幼児教育」の実態をご紹介したいと思います。

トランスジェンダリズム運動の本質(3(完)):子供を狙うトランス活動

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トランスジェンダリズム運動の本質(3(完)):子供を狙うトランス活動

教育、という分野は、ある思想を広く公衆に植え付けようとする人たちにとって最大の武器の一つです。

たとえば、共産主義の始祖レーニンは以下のような言葉を遺したといわれています。

「Give me four years to teach the children and the seed I have sown will never be uprooted」(私に4年間、子供たちに教える時間を与えてみなさい。そうすれば私が撒いた種は決して引き抜かれることはない。)

三つ子の魂100まで、と言われるとおり、幼い頃教わったことは長い間、考え方や行動様式に影響するものです。

ですので、ある種の活動家たちは、まず幼い子供たちを洗脳することに全力を注ぎます。その子供たちが成長したときに力強い戦力として働いてくれるからです。

そうして、ある国ではそれが実証されつつあるようです。

ジェンダークリニックに送られる子供たちの数が5年間で4倍
www.telegraph.co.uk
The number of children being referred to gender identity clinics has quadrupled in the past five years, figures show.
イギリスでは、ジェンダークリニックに送られる子供たちの数が直近5年間で4倍に増加したことが判明しています。

専門家たちによると、この急激な増加は学校においてトランス問題が推進されることにより、子供たちが自分のジェンダーを疑問視することが奨励されるようになったためで、その結果精神的な混乱を喚起している、と見られています。

ジェンダーアイデンティティデイベロップメントサービスという部局によれば、昨年は3歳から7歳の84の子供たちが診察を受け、2012年および13年の20人に比べて著しい増加を示しています。

また、10歳未満というくくりでも、36人から165人という増加、3歳から18歳では、昨年2016人もの診察があり、これは過去5年間の平均314人から6倍にも達しています。

教育省の顧問であったChris McGovern氏はこのように警告します。「人々が、子供のままでいさせるべき年齢の子供たちに対しジェンダーを疑問視するように奨励することでキャリアを築いているという、ひとつの産業が出来上がっている。」

教師たちがこれらの話題を取り上げると、子供たちは混乱し、不幸になり、トラウマを受けることもあるのだ。」

氏はまたこう言います。「ある意味、われわれは大人の心配事を子供たちに押し付けているのです。学校は政治的に正しいアジェンダに従うようにと莫大な圧力をかけられています。」

大学講師であるJoanna Williams 博士は、学校はトランス問題を推進しすぎており、これによって子供たちの心の中に混乱がばら撒かれている、と言います。

フェミニストたちが学校のジェンダー方針に介入し、その結果子供たちは男の子と女の子の違いを忘れるようにと強制されていると。

さらに、博士は言います。「研究によればジェンダー問題を経験するのは人口の1パーセントに過ぎません。トランスジェンダー児童の数は小さなものですが、それは急速に増加してきています。」

「学校での経験により奨励されて、子供たちは、ますます幼い年齢で自分のジェンダー自認について疑問を持つようになってきています。トランス児童をただ支援するということを超えて、これはジェンダー自認に関する混乱を撒いており、その結果学校は男の子にも女の子にも何の利益も与えていません.」

「ジェンダーカウンセリングを受ける幼い子供たちの数が増加しているのは学校が新たに採用した方針に起因している」と博士は指摘します。学校は、最も幼い子供たちにさえ、自分たちが本当に男の子か、女の子かを疑問視するようにと奨励している、というのです。

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学校で、「子供たちに自分のジェンダーを疑問視するよう奨励する」教育が行われ、

その結果、より幼い年齢で児童たちが自分のジェンダーに疑問を持つようになり、

ジェンダークリニックを診察する事例が急増している・・・?

本当にそんなことがあるのでしょうか。

残念ながらあるようです。

というより、イギリスでのトランスジェンダー教育は、たんなる学校教育の域を超えて、超「早期教育」の域に達しつつある様子です。

なんと2歳くらいの保育園児たちに向けて、ドラッグクイーンたちによるストーリーアワー(本の読み聞かせ会)が行われているというのです。

トランス教育は2歳からはじめよ?!
www.dailymail.co.uk
The ‘performances’ are the brainchild of Thomas Canham, a Bristol University law graduate and part-time cross-dresser who dismisses traditional notions of masculinity.
イギリスでは、幼児たちが厳格なジェンダーの制約を無視する人々に会い、ヘイトクライムと戦うことができるような人に成長するように、という意図のもと、公立の保育園において、2-3歳の園児たちに向けた読み聞かせ会が開かれました。

読み手として、女装した男たちが招かれ、幼児向けの詩や、LGBTへの寛容さを教えるための歌を歌ったと報じられています。

特に2-3歳の幼児たちを対象としたのは、子供たちが、差別的な●●主義を持っていないうちに、早期から彼らに影響を与えるためだといいます。

しかし、この試みに対しては、影響を受けやすい2-3歳の子供たちに、人間の最も基本的な事実の一つについて盲目にさせる、という批判も出ています。

著名な児童精神科医のDilys Daws氏は、この活動は幼い子供たちの心に、彼らの性的アイデンティティについての混乱の種を撒くおそれがあり、しかも長期的な影響があるのでは、と懸念しています。

彼女は、「トランスジェンダーになるのは普通のことだ、という考えが国中を席巻しています。これはあまりにも公になっているため、他の場合にはそうは思わない子供たちでさえも、自分もトランスかも、と考えるようになってきているのです。」

Family Education Trustの理事、Norman Wells氏はこう語ります、「トランスジェンダーアジェンダについてもっとも懸念されることの一つは、それが現実の見方を歪めようとし、男性と女性の区別という基本的な事柄を否定しようとするやり方です。」

このイベントを主催する女装家、 Thomas Canham氏が運営するDrag Queen Story Time という団体は、ロンドンのLondon Early Years Foundation が運営する7つの保育園で読み聞かせ会を開いており、これが成功したら関連する37の保育園で同様の活動をすることを計画しています。

彼は大人でも子供でも、スカートを履いていることで批判されないような、「安全な場所」を作りたかったと、説明しています。

また、London Early Years Foundationの理事長であるJune O'Sullivan女史は、とても幼い子供たちを、女装した男たちに会わせるのはよいことだ、と言っています。なぜなら「3歳くらいまでは子供たちはとてもオープンだからです」。

「3歳くらいで、彼らは、大人たちが作りだした●●主義というものを効率的に吸収するようになります」と彼女は説明します。

また、Canham氏もO'Sullivan理事長も、これらのイベントは、保護者たちに、服装倒錯者もトランスセクシャルも、彼らと同じような人間であるとを気づかせるいい機会だと主張しています。


イベントの様子と読み手のひとり、Donna La Mod氏。

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言葉が辛うじて理解できるが、まだ何も知らない2-3歳の幼児に狙いをつける活動家の策動を無批判に取り入れる保育園経営者は、おそらくスーパーがつくほどリベラル主義者なのでしょう。

そもそも2-3歳の幼児は、男女の違いさえよくわかっていません。そのときに、「男は女に、女は男になれる」と教えたならば、おそらく長い間それを信じることでしょう。

そのような早いうちから、生物学的な事実をまったく無視するような倒錯を植え込む。

懸念する親たちにとっては許しがたい蛮行ですが、活動家にとってはこれ以上ないプロパガンダ活動でしょう。

国民保健サービスが性転換を強く推奨する怪奇

しかし、教育界だけではありません、イギリスの国民保健サービス(National Health Service (NHS))は、熱心なセラピストたちが13歳といった年齢の相談者たちに対応する際に「性別変更を規定路線としてしまっている」として、保護者たちからの反発を受けています。

www.dailymail.co.uk
Concerned parents have spoken of their worry that clinic staff are ‘blindly accepting’ children’s claims that they were born the wrong sex and are failing to treat serious mental health conditions.
性別違和の申し立てをする子供の保護者たちは、クリニックのスタッフが、自分は間違った性に生まれたという子供たちの申し出を盲目的に受入れ、メンタルヘルスの深刻な症状を治療することを怠っている、と懸念しています。

ある母親は、15歳の少女がたった40分の面談を経ただけで、専門的なトランスジェンダークリニックに送られたことに驚愕しています。

しかも、NHSは、医療従事者に対して「自分は間違った性に生まれた」という患者の申し立てに反論することを禁ずる覚書を締結したので、医者たちは訴訟を受けることを恐れています。

現在、NHSによって性別転換治療に送られる子供たちの数は記録的に増加しており、1週間に50人に達している、と言われています。

さらに、トランスジェンダーのいわゆる「ユーチューバー」が児童たちの間で人気を博しており、「性別変更でトランスジェンダーがクール(格好よく)なる」と考えさせようと、熱心に動画を配信していることも伝えられています。

こうした環境の中、自分は間違った性に生まれたと考える児童の数が増加する一方、セラピストたちは他の可能性を無視しているのではないかという危惧が高まっています。

Transgender Trendという団体を運営するStephanie Arai-Davies女史はこう語ります。

「過去2年で、およそ100名以上もの保護者たちから相談を受けましたが、彼らは、NHSのカウンセラーやセラピストたちが、ジェンダーアイデンティティクリニックの面談を即座に提案してくるので、保護者たちはとても危惧しているのです」 彼女は、保護者たちからの相談の大多数は、娘に関するものだといいます。

イギリス唯一のNHS傘下のジェンダーアイデンティティクリニックであるTavistock Clinicでは、2009年で97件の受信数が、2016-17年では2000件以上に急増し、そのうち、昨年の件数では1400件が少女たちに関するものだと示しています。

また、同女史は、保護者たちが怒っているのは、NHSの精神科サービスが、彼らに対し、子供たちは性別を変更するべきだ、というたった一つのオプションしか提示しないためだ、と言います。

多くの保護者たちは、子供たちは他のメンタルヘルス問題をわずらっていると考えている、とArai-Davies女史はいいます。

さらに、女史は、多くの保護者たちが、自分の考えを公にすることにより、「トランスフォビア」と指弾され、トランス活動家から向けられるオンライン上での激しい攻撃にさらされることを恐れているといいます。

Daily Mail紙によると、このような懸念を持つ多くの保護者たちから連絡を受けており、

ある15歳の少女の母親は、娘が「間違った身体に閉じ込められている」と主張したことで学校から緊急の面談の要請を受け、次に学校によってNHSの児童精神科に紹介されたところ、当初はうつ病の初期症状と診断されたのが、「家族セラピスト」による40分の診断のあと、ジェンダーアイデンティティクリニックへ紹介された、と訴えます。

また、母親によると、「娘はゲイの友人によって調教されたのでは」という彼女の心配に対し担当のセラピストは耳を貸すことを拒んだ、といいます。当該の少女は、ある少年から、インスタグラムのメッセージを通じて「少女としては醜い」という多数のメッセージを受けており、胸を縛ってホルモン剤を摂るようにとそそのかされたといいます。

セラピストはそれらを「冗談だ」と退け、トランスジェンダークリニックでの受診にこだわり続けた、と母親は語ります。

2回の面談のあと、その家族はセラピストとの面談を止めましたが、少女は結局母親の意思に反してジェンダーアイデンティティクリニックに紹介され、オンラインで注文したテストステロンを摂取し始めたといいます。

不安症との疑いで13歳の娘を精神科に受診させた他の母親は、娘が少年になりたいと訴えたのは他の児童たちからのSNSメッセージ(その中には、「男の子になることを親が許してくれなければ漂白剤を飲んでやると言えばいい、といったものも含まれていました)に影響されたのだと考えていましたが、NHSの心理療法士はその主張に耳をかさなかった、と訴えています。

心理療法士は、母親の懸念にもかかわらず、娘を「彼」と呼び、その胸を縛りたいという本人の言うままにさせるよう主張し続けました 

この母親は、彼女の疑いを理解する医者に変更したところ、少女は男の子になりたいとはほとんど言わなくなったそうです。

多数のトランスジェンダー患者を診察してきた心理療法士のBob Withers氏は、(患者の申し立てに反論しないという)NHSの合意は、性別違和の原因を探ろうとする試みが、本人の選んだ性別とは異なる性別へ転換させようとしているとして見られる危険がある、と警告しています。

氏は、原因を探ることをしないと、「患者が手術を受けた結果あとで後悔する、ということになりかねない」と懸念しています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

成長過程にある子供の心というものは、不安定なものです。

自分の生物学的性別に基づいた男らしさあるいは女らしさがどういうものか、10代のうちには到底しっかりとした考えをもつことは難しいでしょうし、ときにはその性的役割の理解に混乱を来たしたり、自分らしさと両立しないと思い込んでしまうこともあるでしょう。

しかし、性別転換療法は一度始めたら不可逆です。成長期にホルモン療法を始めたら、あとになって「もしあのとき始めていなかったら・・・」と後悔しても、後の祭りなのです。

全米小児科医学大学は、「性適合障害に病む男児の98%女児の88%が思春期を迎えると共に自分の性を受け入れるようになる」と指摘するとともに、「異性ホルモンを摂取したり性適合手術を受けた大人の自殺率は一般人の20倍にも登る」ため、「自然に治る精神状態に対してこのような危険な治療を施す必要がどこにあるだろうか」と疑問を呈しています。[In the strawberry field様の翻訳をお借りしています。]

しかしトランス活動家にしてみれば、性別について少しでも違和を訴えている児童や若者がいるとすれば「上客」、絶対に手放すわけにはいかない、というわけなのです。

工業的なレベルの「製造ライン」の完成

このような状況は、トランスロビー活動家にしてみれば笑いが止まらないでしょう。

「トランスに対する差別をなくそう!」

「そのためには小さな頃から教育し偏見をなくすことが肝心です」

そう主張しているだけで、差別主義者と呼ばれるのを異様に怖がる多数派のほうが「教えを請うて」来ているのですから、ロビーにしてみれば、文字通り何でも好きなことを教えられるのです。

一部保護者がそれを批判しようものら、何でもかまわず「ヘイト」「偏狭」「ホモフォビア」「トランスフォビア」と攻撃して黙らせればよい。

そうこうしているうちに、もともと性についてはよくわかっていない幼い年齢の子達ですから、多数の児童たちが「トランスはクール(格好いい)」という価値観を持つようになり、

何かがあってセラピストを訪れると、恣意的に「この子はトランスジェンダーです」と断定されてしまう。

そうして、ホルモン療法や、やがて手術へと誘導される。

この一連の流れが、ある国ではほとんど工業的なレベルといっていいほどに完成されつつあるようです。

そして憂慮すべきは、日本のLGBT活動家も同様、彼らが真っ先に狙っているのは学校教育の改変だという事実です。

もしも性的少数者の子達に助けの手を差し伸べたいなら、彼らのためのフリースクールの立ち上げや、もう少し頑張って私立学校を設立したほうが、よほど役に立つと思うのですが

彼ら活動家は決して、決して、そのようなことはしません

むしろ、「日本社会全体が変われ」「公立学校教育が変われ」が彼らの絶対的ドグマなのです。実際に子供たちを救うということより、多数派の征服を企図する権力欲のほうがはるかに強いのです

表層的な被害者アピールと「愛」「誰もが暮らしやすい社会」といった優しいスローガンの裏にあるのは、多数派に対するすさまじいまでの権力欲、征服欲であり、

その行き着く先は幼児期から始まる洗脳工作と、親の心配を無視した「性別違和の訴え」→「性転換」という「製造ライン」の確立です。

最後に、上記のイギリスでのドラッグクイーンを招いた読み聞かせ会をインスパイアしたといわれている、アメリカでの同様の読み聞かせ会の模様をお伝えして結びにしたいと思います。
www.lifesitenews.com
Drag Queen Story Hour's objective is to give young children 'glamorous, positive, and unabashedly queer role models.'


米国カリフォルニア。子供たちに「魅惑的、ポジティブで、気後れせずクイアーなロールモデルを提供するため」に図書館で開催されたドラッグクイーンストーリーアワーに登場したドラッグクイーン、 Xochi Mochi 氏。

この外見が何をイメージしているかは、もはや説明の必要はないでしょう。

角を生やし、不気味に隈取をした、男でも女でもない何者か。

多数派が「トランスフォビア」と呼ばれることを恐れて手をこまねいているうちに、このようなものが幼い子供たちの前で「ロールモデル」として提示されているのです。


 Xochi Mochi 氏のインスタ写真。

幼児たちに「物の道理」を好きなように教える権利を獲得し、高笑いしているのは、トランス活動家たちだけでしょうか・・・?

それとも・・・・・。

トランスジェンダリズム運動の本質(追補)

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「トランスジェンダリズム運動の本質」123、に関連して、キリスト教ともかかわりのあるニュースが浮上しましたので、それを含めて番外編を投稿しておきます。

英国国教会:トランス活動家にひざをかがめる

英国国教会は今般、傘下の4700の教育施設でのホモフォビック(同性愛嫌悪)ないじめを防止するための指針を今般改定しカンタベリー大司教であるJustin Welby師の承認のもと発表しました。

具体的には、バイフォビック(両性愛嫌悪)やトランスフォビック(トランスジェンダー嫌悪)を防止するための様々な指針が盛り込まれました。

これが、「男児による女装」を含む異性装一般を奨励しているかのように受け取ることもできる内容で、大きな議論を巻き起こしています。
www.theguardian.com
Boys should be free to choose to wear a tutu, tiara or heels, and girls to wear toolbelts and superhero capes, the Church of England has said in new guidance issued ...
英国国教会によると、

幼稚園や保育園の時代は創造的な探索のときであり、児童たちは多数のアイデンティティの外套を着てみることや、決め付けや嘲笑を受けることなく自分が誰であるかについての可能性を探ることを許されるべきである」とのこと。

この信念のもと、以下のような一文がガイダンスに盛り込まれ、大きな議論となっています。

「たとえば、子供はチュチュやお姫さまのティアラ、ハイヒール、あるいは消防士のヘルメットやツールベルト、スーパーヒーローの扮装などを、[他者の]期待やコメントを受けることなく選ぶことができます。」

また、指針はこうも述べています。

子供たちは永続的な期待からの自由を与えられるべきです。彼らは人生における"お試し"段階なのであって、大人ではないのですから、ラベルを貼り付ける必要はないのです。」

「これは、教師たちが、褒めるときや指示を与えるときに使う言葉についても示唆を与えるべきです。子供たちの振る舞いがジェンダーのステレオタイプや今日の遊び方に合致していないからといって、例外的、異常、あるいは問題であるというラベルや予断を与えることは避けることが望まれます。



             チュチュを身に着け踊る少年(Guardianより)

・・・・・・・・・・・・

この新たなガイダンスは、保守派からの批判を呼ぶとともに、LGBT活動家たちからは好意的に受け止められています。
www.theguardian.com
LGBT charities and campaigners have welcomed the Church of England’s new guidance for schools urging them to refrain from making pupils conform to gender ...
LGBT権利活動家のPeter Tatchell氏はこの指針について、「多様な性的志向性とジェンダー自認を支持しており、[周囲と]異なっている児童たちを支援するものです。また、彼らが貶められることなく探求、実験および表現をすることを認めています。」と語り、歓迎。

いっぽう保守派キリスト教活動家である、Andrea Minichiello Williams 女史は、新規則を批判し、英国国教会を「教会の教えと逆行するアジェンダ」を追求しているとして非難しました。

また、Good Morning Britain という番組を主宰する Piers Morgan氏は、この指針を「新しい流行」と呼んで批判。「私には6歳の女の子がいるが、彼女はジェンダー自認が何なのかも知らない。それでも教師たちは5歳児にむかって「今日気分はどうだい?自分は男性だと思う?それとも女性?」と尋ねるようになっている。」

LGBT慈善団体Stonewallの広報担当者は、団体はこの指針を暖かく歓迎すると表明。「すべてのいじめは子供たちに甚大な悪影響を及ぼし、これは決して受け入れられません。我々の研究によれば、レズビアン、ゲイ、バイセクシャルおよびトランスジェンダーの児童の半数近くがLGBTであることを原因として学校でのいじめにあっています、このような状況は絶対に変えなければなりません。」

「我々は、教会がホモフォビック、バイフォビクおよびトランスフォビックないじめは決して見過すことはできないという明確なシグナルを送ったことを祝したいと思います。カンタベリー大司教が前書きで記したとおり、この指針は、学校が愛、喜びや、例外や除外なしに人間性を祝うという、クリスチャンのメッセージを送ることを助けるでしょう。このメッセージは我々皆が支持できるものです。」

英国国教会教育担当主席理事のNigel Genders師はFacebookを通じて説明。

「10人に一人のトランスジェンダー生徒は殺害脅迫を受けたことがあります。」「これが若者の人生にどのように影響するか想像できますか?社会的排除、オンラインいじめ、言葉によるものや物理的な虐待を通じた周縁化はもっと頻繁です」

「両親、友人、教師や統治者のうちだれも、自分の身近にそのようなことが起きてよいと思わないはずです。われわれキリスト者にとって、全ての児童が歓迎され、コミュニティーの一員として重んじられ、尊重されるような学校を作ることが必須です。この基本的要素なしにどうして、全ての子供たちが元気に育っていくようにすることができるでしょう?」

・・・・・・・・・・

いっぽう政治の世界でも連動したかのような動きがありました。
www.theguardian.com
Theresa May has pledged to press ahead with plans to let people officially change gender without medical checks, as she said “being trans is not an illness and it ...

先日、イギリスのテレサ・メイ首相は、医学的診断を経ることなく公的にジェンダーを変更することができるようにする計画を推進することを表明。

首相は、トランスの権利を改善すると約束しており、前回の選挙以前から、ジェンダー認定の法律を改革し、人々が自らジェンダーを決定できるようにする意図を発言していました。

昨夏には、教育相のJustine Greening氏が、公的な性別変更に先立って性別自認不一致の医学的診断を受けるという要件を撤廃するべく、ジェンダー認定法の改革について政府が協議を行うと述べています。

メイ首相はまた「ホモフォビック、トランスフォビックないじめを根絶することを決意。

「私たちはジェンダー変更のプロセスを合理化し、非医療化することを目指し、ジェンダー認定法の改革計画を策定しています。トランスであることは病気ではなく、そのように扱われるべきではないからです。」

「私は、自分が世界で最も多様な国会の一員であることや、今までLGBT+問題についてこの国が進んできた道のり、半世紀前のSexual Offences法から始まり、私が内務大臣として推進した同性結婚法までを誇りに思っています。」

「しかし、まだまだやるべきことが残っています。例えば、学校でのホモフォビック、トランスフォビックないじめの根絶や、ジェンダー認定法の改革などが達成されるまで尽力するつもりです。そうして、社会の誰にとってもよりよい未来を築いていきます。」

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それにしてもアクティビズムやロビーイングの力とは本当に凄いものだと痛感させられます。

いじめを根絶したいなら、どのような理由であれいじめはダメだ、と子供たちに厳しく教えればよいと思えそうなものを。

ところがここに論理の転倒が起きるのです。

「全ての(例えば男子)児童が、本人が望むならティアラ、チュチュ、ハイヒールを身に着けることができるようにし、子供たちが自分のアイデンティティを探索できるようにしよう」?

もし困難を持つ子供がいたら、親と教師が個別的に対応するべきですが、活動家の論理は違うのです。

ごく少数の児童のために、全ての児童の頭の中を変えるべきなのです。

ごく少数のトランスジェンダー当事者のために、社会全てを変えるべきなのです。

前号でご紹介したように、「男は女になれる」「女は男になれる」というメッセージを早いうちから刷り込み、

もう片方では「男の子もティアラ、ヒール、チュチュを身に着けたりして、自分のジェンダーを探ってみよう」という動きに教会さえも追随。

さらに、「医学的診断抜きで性別変更」、すなわち、自らの観念的レベルにおける決意のみで、「男が女に」、「女が男になれる」ような法制度の導入。

立体的にとらえると、イギリスにおけるトランス活動、ひいてはLGBT活動界隈全体が、何を目指しているかよくわかります。

「いじめ防止」の名のもと社会全体の「エンジニアリング」をしているのです。

いじめを防止するために、いじめという行為そのものに取り組むのではなく、

あらゆるすべての人が持つ、性に関する潜在的な価値観を「上書き」してしまえ、というのです。

イギリスは既に2014年に同性婚が法制化されています。

同性婚の次に、トランス活動が来る。もはや、これは国を問わずどこでも共通のパターンと考えていいでしょう。

最近、これらに関連してかなり危機的なニュースが次々と入ってきていますので、当分この手の投稿が続く予定です。
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