またまた、プログレッシブ・キリスト教徒さんの面白い投稿がありましたのでご紹介します。
プログレッシブ教においては、「地獄などない」「地獄など比喩です」
が前提であることは、これまでいろいろプログレッシブ信徒さんたちの投稿を拝見してよくわかりましたが、
「想像してごらん。天国は、な~い(←by ジョン・レノン(爆))」
という境地にまさか行き着いていたとは思いませんでした。
K.F.さん、キリスト教の解体作業がとうとう完了したみたいですね。お疲れさまでした~!(笑)
・・・と冗談はさておいて、果たしてこの主張が妥当かどうか考えてみたいと思います。
天国ってなに?
プログレッシブ教徒さんにとっては聖書など何ほどの価値もなさそうなので、まったく無駄なことだとは思うのですが、
一応「天国」とは何か、誰が「天国」にいけるのか、について聖書が何を語っているか、見てみたいと思います。
・・・とはいえ、これを説明する前に、「人は死んだらどうなるか」ということについて聖書がどう語っているか、時系列でまとめる必要がありそうです。
(1) 永遠の命の約束
イエス・キリストを信じる者は、「永遠の命を与えられ」「さばきに会わず」「死からいのちに移る」(ヨハ5:24)とイエスは語っています。
(2) 復活の約束
これに加えて、全ての死者はみなよみがえる、そして善人はいのちを受け悪人はさばきを受ける、という大原則をイエスは語っています。
ヨハ5:28-29
・・・・墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。
このよみがえりとはいったいどんなものなのでしょうか。
(3)再臨
パウロ先生の解説によれば、イエスを信じる者は、「終わりのラッパとともに」「朽ちないものに変えられる」ということです。
Iコリ15:51-53
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。 ・・・
さらに詳しくいうと、このタイミングは即ちキリストが再臨するときであって、そのときにはイエスを信じて死んだ者がまずよみがえり、次にその時生きている信者が引き上げられる(つまり携挙される)。
Iテサ4:16-4:17
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
しかし、まだ「天国」は出てきませんね。彼らはそのあとどうなるのでしょうか。
(4) 千年王国
再臨のあと、いわゆる「千年王国」が始まるのです。
黙示録によるならば、彼らはその王国において特別な任務が与えられています。
黙示20:4
また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。
「イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たち」が、よみがえって、千年間の間地上を支配することがわかります。
つまり、彼らは世間一般で思われているように、天使のわっかをつけて、ふわふわした雲の中で遊んでいるというわけではなく、王の王であるキリストを補佐する者として地上にあるものを管理する任につくわけです。
なお、この記述を見ると、再臨-千年王国の直前の艱難時代に「獣」の迫害を耐えた人々だけに限定され、艱難時代に入る前に死んだ信者は含まれていないようにも見えますが、以下の箇所からその疑問は払拭できます。
マタ19:28
世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。
12弟子は、これから先の艱難時代よりはるか前に死んでいますが、その12弟子たちが、イエスの再臨後にイスラエル12部族をさばくものとして指名されていることがわかります。
さらに、以下の黙示録の箇所から、12弟子たちやユダヤ人の信者だけでなく、イエスの血によって贖われた人々は、あらゆる民族・国民にわたっており、それらの人々も王・祭司として地上を治めることとなっていることがわかります。
黙示5:9-10
あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。
イエスを信じて死んだ者たちは朽ちない体によみがえって、これらの任務につくことが確認できました。また、再臨のとき生きている者も同様に作り変えられ、この任務につくものと考えられます。
では、上記以外の死者は、どうなるのでしょうか。
黙示 20:4-6
・・・彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。[←注:獣を拝まなかった人達です。]そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。 この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。
その他の死者は再臨後も千年の間、死人のままでいつづけます。使徒ヨハネは、ここで「第二の死」というものを予告しています。復活にあずかった者は、千年の間支配するだけでなく、この「第二の死」には無関係だと言っていますが、いったいこの「第二の死」は何を意味するのでしょうか。
(5) 最後の裁き
千年王国の最後に、縛られていたサタンが開放され、ゴグ・マゴグを惑わして戦いを挑ませますが、彼らは天からの火で焼きつくされ、サタンは、先立って「獣」「にせ預言者」が投げ込まれていた火と硫黄の池に投げ込まれます。そしてそのあと「白い御座」のさばきが始まるのです。
黙示20:11-15
また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た・・・また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。・・・・・そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。
いわゆる、「その他」のすべての死者は、千年王国の最後のときに復活して裁きを受けることがわかります。これが「第二の死」です。
(6) 新しいエルサレム
その後、イエスを信じる者たちは、天から降りてきた新しいエルサレムで永遠にイエスと御父を礼拝し続けます。
黙示21:2
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
22:3-4
もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。
ひととおりみてきましたが・・・あれ、おかしいですね。
いわゆる、一般的なイメージの天国と、いまいち合致しません。
よく言われるのが、イエスを信じれば、その人は死んだらすぐ「天国」に行く、ということなのですが、それは違っていたのでしょうか。
でも、ご安心を。その答えも聖書にはちゃんと書いてあります。
(1) イエスを信じる者が死んでから復活するまではどこで過ごすのか。
パラダイスです。
ルカ23:43
イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
これは極めて重要な聖句です。この言葉は、イエスの隣で十字架につけられたがイエスを信じた重罪人に向けて語られたものです。
つまり、カトリックでよく言われるように「煉獄」での苦しみを経て清められてからパラダイスに行くのではなく、イエスを信じて死んだ者の魂は、その日に、パラダイスに着くことになります。
でも、パラダイスっていったいどんな場所でしょう?
IIコリ12:2-7
私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に――肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。――第三の天にまで引き上げられました。 私はこの人が・・・・パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。 このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。 たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
パウロ先生はもってまわった言い方をしていますが、彼自身がパラダイスの内容について啓示を受けたことはあきらかです。
それがあまりにもすばらしいので、「人が私を過大に評価するといけないから」、「高ぶることのないように」肉体に「とげを与えられた」とまで言っています。(有力な説ではこれはなんらかの慢性病とみられています。)
残念ながら、パラダイスは存在していても、それをつまびらかにするのは神さまの御心ではないようです。
パラダイスに関する数少ない直接的記載は、あともう一つしかありません。
黙示2:7
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。
ともあれ、イエスを信じた者が死んでから復活するまでをすごす場所は、明らかに、地上よりもずっと良い場所であることは間違いありません。この確信は慰めを与えてくれます。
(2) イエスを信じない者が死んでから復活するまではどこで過ごすのか。
「黄泉」、ギリシャ語でハデス。旧約ではよく「陰府」といわれますが、ヘブル語でシェオールです。
とはいえ、このハデス・シェオールを考える前に、一般的に言われる「地獄」との区別に着目しなければなりません。
そもそも、旧約における「陰府」は、義人であろうが悪人であろうが全ての死者が一般的に入る場所と考えられてきました。
そして新約になってはじめて、そこになんらかの区別があるらしいということが明確になります。
ルカ16:19-24
ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。 さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
貧乏人ラザロにとっては慰めの場所ですが、この金持ちにとっては苦しい場所のようです。
上記はイエスご自身の説明ですが、そこから推察するなら、「黄泉」は少なくとも2つのセクションにわかれており、正しい者は慰めを受け悪い者は苦しみを受けることになっていたようです。(ただし後者の場所も、厳密には地獄とは違います)。
(3) 旧約聖書の義人たちは死んだあとどこで過ごしていた(いる)のか。
でも、まだ疑問があります。「旧約聖書の登場人物はどうなった?彼らはイエスを信じていなかったじゃないか。」
いえ、イエスは、ルカの福音書にある金持ちとラザロの箇所でこう語っています。
さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。
聖書は、そこをパラダイスだ、とは言ってはいませんが、旧約で神の友であったアブラハムは、金持ちがいる苦しそうな場所とは区別された場所で、貧乏人ラザロを迎え、慰めています。
整理していくと、イエスが十字架にかかってはじめてパラダイスができたのであって、それ以前には、死者の魂が行く場所は「黄泉」だけということでしたが、その黄泉も、慰めの場所と、火で焼かれる場所と、2つのセクションに分かれており、旧約の義人たちも死後は良いほうの場所で過ごしていたと考えるべきということになります。
ある説では、キリストの十字架とともに、旧約の義人たちは黄泉(の良いセクション)からパラダイスに引っ越したのだという主張もあります。
さらには、旧約の義人たちもまた千年王国では復活するのではないか、と筆者は考えています。なぜなら、主イエスの変容の逸話(マタイ17、マルコ9、ルカ9)においてモーセとエリヤが現れてイエスと語り合っているからです。これは、おそらくはいつか実現することを表象しているのであって、それは千年王国においてと考えるのが一番妥当と思います。
しかし、まだまだ疑問はあります。
(4) イエスの再臨時の「獣」とキリストの戦いを生き延びた人たちはどうなるのか。
今まで、イエスを信じて死んだ者たち、イエスを信じて再臨の日を迎えた者たち、旧約聖書の義人たち、それ以外の死者たちがどうなるのを見てきましたが、もう一つのグループがあります。
それは、再臨の時点で、イエスを信じておらず、なおかつ「獣」とキリストの戦いを生き延びた人たちです。
聖書を字義どおり解釈するならば、これらの人たちは2種類に分けられます。
ユダヤ人と異邦人です。
まず再臨の時点に着目すれば、これらの人のうち、異邦人は「羊」と「山羊」によりわけられます。
マタ25:31-33
人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
長くなりますのでこれ以上は引用しませんが、「兄弟」という言葉の意味合いから考えると、これは、ユダヤ人を陰ながら匿い支援した異邦人と、ユダヤ人を迫害した異邦人とのよりわけであると考えるのが最も妥当と思われます。
後者はさばきを受けます。
いっぽう、ユダヤ人は。
ゼカ12:10
わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。
彼らは再臨のイエスを見上げて不信を悔い改めます。
そして全員がイエスを信じます。
エレミヤ31:33-34
見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。・・・・・わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。・・・・
このイスラエルの家に建てられた「新しい契約」では、人々が小さい者も大きい者も主を知り、もはや誰かが誰かに教える必要はない、とされています。
パウロもローマ書11:26で、「こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。」と証し、イザヤ59章を引用しています。
59:20-21 「しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る。」―主の御告げ―これは、彼らと結ぶわたしの契約である」と主は仰せられる。
(なお、エレミヤ31章の「新しい契約」にまつわる箇所はヘブル書8章でまるまる引用されています。それゆえ、これらの「新しい契約」は私たち新約時代の異邦人信者にあてられたものと即断してしまう人もいますが、それは違っています。むしろローマ11:17にあるように、私たち異邦人はあくまで「イスラエルの家とユダの家」にあてられた契約を、「ともに受けている」だけの者だということを覚えておく必要があります。)
ともあれ、イエスを信じたユダヤ人たちは、国々の中で筆頭となり、繁栄と栄華を誇るようになります。
イザヤ61:4-7
彼らはいにしえの荒れた所を建てなおし、さきに荒れすたれた所を興し、荒れた町々を新たにし、世々すたれた所を再び建てる。外国人は立ってあなたがたの群れを飼い、異邦人はあなたがたの畑を耕す者となり、ぶどうを作る者となる。しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神の役者と呼ばれ、もろもろの国の富を食べ、彼らの宝を得て喜ぶ。あなたがたは、さきに受けた恥にかえて、二倍の賜物を受け、はずかしめにかえて、その嗣業を得て楽しむ。それゆえ、あなたがたはその地にあって、二倍の賜物を獲、とこしえの喜びを得る。
また、生き残っている異邦人たちは、主を礼拝し、主の教えを知るために集まってくるとともに、ユダヤ人に殺到して教えを請います。
ゼカ14:16
エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。
イザ2:3
多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。
ゼカ8:23
万軍の主はこう仰せられる。「その日には、外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、ひとりのユダヤ人のすそを堅くつかみ、『私たちもあなたがたといっしょに行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたからだ。』と言う。」
また、自然環境ががらりと変り、動物は肉食をしなくなり、人間の寿命は著しく伸びます。
イザ11:6-11
狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。
65:19-25
そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。・・・・・わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。・・・・狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく、滅ぼされることもない。」
千年王国においては、異邦人たちの多くもイエスを信じるようになると同時に、繁栄と幸福にともにあずかることになりそうです。
(聖書学者のA.フルクテンバウム博士は、「肉の体をもって千年王国に入った者は、イエスを信じたときに不死の体となるいっぽう、イエスを信じない者は100年ほどで死んでしまう」という立場をとっています。したがって、千年王国の終わりに反乱するゴグ・マゴグの軍勢は生まれて100年もたたない「若い」人々の集団であると考えられます。)
ここでイエスを信じた異邦人たちが千年王国後新しいエルサレムに入るのは間違いないでしょう。
小まとめ
・・・ずいぶん長くなりましたが、「天国」とはなんぞやについて聖書をひいてサクっと解説するのはやはり無理で、最低限でも以下を踏まえる必要があるということがわかりました。
(1) イエスを信じて再臨前に死んだ者は
→「パラダイス」にいく
→再臨時に蘇り、千年王国で地を支配する
→新しいエルサレムに入る
(2) イエスを信じて再臨まで生き延びた者は
→携挙され、新しい体となり千年王国で地を支配する
→新しいエルサレムに入る
(3) イエスを信じずに死んだ者は
→「ハデス(黄泉)」にいく
→千年王国の間も死者でいつづける
→千年王国の終わりに「白い御座」のさばきをうける
(4) イエスを信じないまま、再臨を迎え、「獣」とキリストの戦争を生き延びたユダヤ人は
→イエスを信じる
→千年王国で繁栄を享受、不死の体となる
→新しいエルサレムに入る
(5) イエスを信じないまま、再臨を迎え、「獣」とキリストの戦争を生き延びた異邦人は
→ユダヤ人迫害者は「山羊」として裁かれる
→ユダヤ人援助者は千年王国に迎え入れられる
→繁栄を享受(その一部は、イエスを信じない可能性がある。また、千年王国の終わりには人類の子孫からサタンの唆しに乗って反抗する者が出てくる。)
→信じない者は若くして死ぬ(とはいっても100歳くらいは生きる)
→信じた者は不死の体となる
→新しいエルサレムに入る
時系列にまとめるとこのようになるはずです。
いやはや、プログレッシブ信者さんたちは、自分たちの信念と異なる聖句をどれだけ提示されてもまるで「屁」とも思わないでしょうから、まったく無駄でしょうに、我ながらご苦労な作業をしてしまいました。(笑)
悪人は悪人のまま天国に行ける?仮に行ったらどうなる?
しかし、筆者は思いますが、これらの聖句を細かく吟味する以前の問題として、冒頭に挙げたプログレッシブ信者さんの論理には重大な瑕疵があると思います。それをこれから考えていきたいと思います。
→はい、この指摘は、おおむね合っています。聖書には、確かにそこここにそれらしいことが書いてあります。
で、聖書など屁とも思わないプログレッシブ教の立場としては、それらの聖書箇所が間違っており、それらの聖書箇所は「イエスキリストの心を完全に裏切る」というのですね。(←いやあ、何度読み返しても、この論理展開についていくのに本当に苦労します(苦笑))
でも、よく考えてみれば、天国というのは、痛みも苦しみもなく、死ぬことも無く、人々が永遠に生きられる場所、と思われていますよね?
そんな場所に、もしも「心に憎しみや悪い思いを抱えている人」「罪を悔い改めていない人」が一人でも混じったら、その瞬間からその場所は以後永久に「天国」ではなくなってしまうと思わないのでしょうか?
考えてもみましょう。
いま我々が生きる世界は完璧から程遠く、大半の人々はあくせく労働しなければならないうえに、どんなによくても80年ほどしか生きられず、どんなに元気な人でもだいたい40歳過ぎると急激に体が衰えてきます(切実(爆))。
これは逆に言うと神さまの恵みともとることができるのです。
なぜなら、たとえ心に、「悪いことをしよう」という思いを抱えている人でも、今の世界では、実行できないまま日々を忙しく過ごし、数十年数えているうち、自然と体力が衰え、悪いことを実行する能力すらもなくなってくるからです。
極端な話、どんな凶悪な者、連続殺人犯とか、たとえヒトラーといった独裁者でも、ある時期は逃げおおせたり、いっときは栄えることがあっても、放っておけばいつか死んでしまう。
だから、今の世界では、凶悪な者でさえも永遠に凶悪なことをし続けることはできません。
ところがです。もし、誰もが、健康で永遠に生き続けられる世界があるとして、そこに殺人鬼や独裁者がひとりでも紛れ込んだら、どうなるでしょうか?
彼の体はまったく衰えず、また食べていくためにあくせく働く必要がないとしたら、永遠に生きるその過程の中で、誰かが止めない限り、その人は悪事をしつづけないでしょうか?
すると彼を止めるために、血みどろの争いが必要になってくる。逆に、止めなければ、沢山のひとたちが犠牲になります。
・・・・もうこうなると、こんなの天国でもなんでもありません。むしろ、今の世界で悪人が放たれるよりも、何倍もひどい結果になりかねません。
だから、「天国」なるものを実現しようと思ったら、入り口で「規制」をかけることは必須だというのが論理的に明らかです。
ということは、ぶっちゃけ、「悪人」であっても、「悔い改めた悪人」でなければ天国には入れないと考えるのは当然すぎるくらい当然です。
「排除の論理は許せない!」
ですが、このプログレッシブ信者さんは、この社会に働く「排除の論理」に憤慨するとともに、天国には悪い者は入れないというなら、それは人間社会と同じじゃないか!そんなのおかしい!と喝破します。
えーっと。ポリポリ・・・・
もしも、社会のルールに従おうとせず、常識がわからず、「矯正」しても治る見込みがなく、我々と全く違う道徳観をもち、善悪の判断ができず、全く違う価値観を持った人たちを社会に大量に招き入れたらいったいどうなるでしょうか?
この社会は、完璧なものではありません。しかし完璧でないなら完璧でないなりに、どうにか無用な争いと損失を避けて、人々が生産的な営みに集中できるようにする努力が長年なされてきました。
だから、法律というものがあり、道徳観というものがあり、善悪の判断というものがあります。
その中に、違う法律を掲げ、違う道徳観をもち、善悪の観点がまるで違う人々が入ったら、激しい争いになるのは必至です。
(余談になりますが、まさにこれがいま欧州で起こっていることです。「政教分離」「言論の自由」「男女平等」といった社会に、「イスラムこそが至上!」「冒涜は死刑!」「シャーリア法を施行せよ!」「異教徒の女は性奴隷!」という人たちが大量に入っていったら、ムチャクチャなことになります。っていうか、今まさになっています。だから、遵法意識、道徳観、善悪観がおおむね一致した人たちで社会を構成することは、平穏で生産的な社会を作るにあたって必須です。その一致がなければ延々と内戦が続くことになりかねません。)
とはいえ、それでもプログレッシブ信者さんは納得しません。
「社会秩序に合わない人を排除する人間の古くからの習性・・・・・それに従う人々は悪魔の子」・・・?
ぶわっはっはっは!これは笑いました。
確かに、イエスの時代に律法の解釈をめぐって対立が生じ、既存の宗教権威がイエスを排除しようとしたのは事実です。
でも、「暴力的で悔い改めない人を排除するのは最も簡単なことですが・・・イエスは「いや、敵を愛しなさいと」」・・・って?
はあ?
イエスは、「盗むな、殺すな、姦淫するな」って確か教えてませんでしたか?僕の勘違い?
姦淫で逮捕されることは日本ではほぼありませんが、暴力を振るう人、盗む人、犯す人は、どうにかして隔離しなければ社会が崩壊してしまいますよね。
イエスはこのような行為の取り締まりにも反対していたのでしょうか?
およそ、社会が生産性を保つには、軍隊や警察といった暴力装置によって、構成員がこれらの行為から保護されることが必要です。
なんとなれば、突然誰かから襲撃されることもなく、財産や作物を盗まれる心配もないからこそ人々は生産活動に集中し、高い成果を挙げることができるのであって、
もし、常日頃から襲撃におびえていたら生産どころではありません。それこそ自警団を組織しなければやっていけないでしょう。
あまりにもこういった行為が蔓延したら、しまいには真面目に働くよりも人から盗むほうが効率がいいということになりかねません!
それでも暴力的で悔い改めない人を排除してはいけないのでしょうか?
弱い人が継続的に暴力の犠牲になりつづけるような状態が正しい状態なのでしょうか?
まあ確かに、このプログレッシブ信者さんが指摘するとおり、人間の社会システムは完璧ではありませんから、「排除」を前提とした社会秩序で無実の人も排除される事例が生じるのは避けられません。
しかし、だからといって秩序を守ろうとする行為自体をやめるわけにも行きません。このジレンマは社会が存続する間ずっと続くでしょう。
ところが、この信徒さんは、神が行う「さばき」もまた、人間のさばきと同様欠陥だらけのものだと仮定しており、結果そのような「さばき」を行う神は偶像であると断定しています。
いやはや、ずいぶん小さな神観です。筆者の考えでは、神は全て人の心中をお見通しであって、かならず正しい裁きを行う方だと思っていたのですが・・・・・
ま、全知全能の神を想像できないというなら、それはたんなる想像力の欠如ですから、それをプログレッシブ信徒さんの信仰の欠如と詰るのはやめておきます(←皮肉です(笑))。
おおいなる愛のカンチガイ
ただ、我こそは「愛や寛容や親切を最も必要としている」人たちを思いやっている、と自称するなら、そんなプログレッシブ教徒さんたちがやるべきことはただひとつです。
社会に到底適合できないような、犯罪ばかり犯してしまう人達に向かって実際に手を差し伸べ、その人達が、どうにか再犯をしなくてすむように支えることです。
日本には、進藤龍也さんという、元ヤクザだった人が悔い改めて牧師となり、現在は、不良少年や出所者がまっとうに生きられるよう支える活動をしておられる方がいます。
プログレッシブ信徒さんたちも、このような働きを自らが行うか、金銭面で進藤牧師のような人を支えることが肝要であり、
「天国は、な~い」とか歌っていても、いっさい何の解決にもならないということを知る必要があります。
筆者は、自分の教会の元メンバーで、さすがに刑務所入りはないがスレスレの生活を送ってきた男性を知っています。
はっきりいって、そのような人を支えるのは難しいことです。
長期的人間関係を築いたり、一つの仕事を続けるのがなかなかできないのです。筆者は、牧師に生活費を用立ててもらっても仕事を世話してもらってもその人が何度も辞めてしまうのを見てきました。
理屈では、「こんな生活やめたい」と思っていても、なかなかやめられない。
このような人達が抱えている問題は、怒りグセ、酒癖、薬物グセなど種々あるでしょうが、彼らの多くはそれがよくないとわかっており、むしろ、「こんなことはやめたい、でもやめられない」と葛藤しているのです。
それでは仮に、プログレッシブ信徒さんたちが、このような人達を前にして、「悔い改めなくていいよ。」「悪いのは、キミタチを排除するこの社会なんだよ。」と「愛の福音?」を説いたらどうなのでしょうか?
罪や暴力をそのまま続けることを認めてあげたら、どうなるのでしょうか?
いや、そりゃまずいでしょう。絶対。(←そんなことをしたら、「じゃあその暴力の被害者はどうなるのか」って話がそもそも出てきます!)
現実的には、「俺だってイエス様を信じればどうにかして酒、(薬、喧嘩、盗み・・・etc.)をやめられるかも?」、という希望を彼らに抱かせてあげるのが本当の希望なのであって、
「悔い改めなくてもいいよ」というプログレッシブ的「福音?」は、むしろ、彼らや彼らの更正を支える人達の努力を真っ向から否定してしまうものなのです。
はっきりいって、これは多いなる「愛の勘違い」です。
それともプログレッシブ信徒さんたちは、犯罪傾向のある人達から恒常的に暴力の被害を受け続けつつ、なおかつ彼らに「やめなくていいよ」と言い続け、延々と生活費を渡し続けるのが正しいことだと、まさか思っているのでしょうか。
筆者は彼らの思想に接していて思うのですが、彼らは人生での色々な実体験というのに実に乏しいように見えるし、その言うことも陰影に欠けた単なる絵空事が多いという印象を受けます。
本当の希望を否定するプログレッシブ教義
実は、「イエス・キリストを信じれば、罪深い行いや悪い心から離れることができる」という希望は、上記でみてきたような、犯罪から足を洗いたいと思っている元犯罪者の人達だけでなく、いわゆる違法行為を一度も犯したことのない品行方正な人であっても持つべき希望なのです。
なぜなら、どんな人間でも一片の悪い心は持っているからです。そして、悪い心を持ちながら、悪いことをしないよう葛藤しつつ生きるのは、実は苦行以外の何ものでもないからです。
死んだあとそんな人生が永遠に続くとしたらそれは天国でもなんでもありません。
しかし、イエスを信じる人は、難しい言葉でいうと「聖化」されていくのであって、そして最後には新しく作り変えられると聖書は言います。これこそが希望です。
筆者が上に上げた男性の例でも、なかなか勤務先は安定しませんでしたが、目に見えて穏やかな性格になり喧嘩をしなくなったことだけは覚えています。
そのような変化の体験こそがイエス・キリストの力を知ることであって、「悔い改めなくていいよ」「社会が悪いんだよ」と吹き込むことは福音でもなんでもありません。
つまり、プログレッシブ教義は本当の希望を否定するのです。
全知全能の神の力もイエスの贖いの血の力も信じられないならば、それは本人のためには気の毒なことですが、「天国は、な~い(by ジョン・レノン?)」があたかもイエスの教えであるかのように言うのは単なる心得ちがいであって、ひいては世のため人のためにもならないということを知ってほしいものです。